マタイ5:4
”神の前に悲しむ者は幸いです“ 内田耕治師
人間は喜ぶとともに悲しむ者です。何を悲しむか、悲しみの大きさ深さは人それぞれですが、悲しむこと自体はだれにでも起こります。子供でも、青少年でも、働き盛りの大人でも、老人でも、貧しい人でも、金持ちでも、地位の高い人でも、人間である以上、悲しみを避けることは出来ません。
ところで、だれかが悲しむとき、その人は自分の悲しみをわかってくれて共感してくれる人を求めます。同類相哀れむと言うように同じような問題を抱えて悲しんだ経験がある人は案外そうできるものです。悲しむ人は“苦しむのは自分だけじゃなかった”と安心して、それが慰めになるからです。けれども、いつでもそう上手く行くわけではありません。わかってくれる人が身近にいなくて自分だけで苦しむ人、涼しい顔をして心には悲しみがある人がたくさんいます。だから聖書が「――泣く者とともに泣きなさい」教えるように上手くできてもできなくても互いに向き合って悲しみを努めて共有し、慰め合うことが求められています。
さて、人間どうしが悲しみを共有し慰め合うことの前に、神は私達に慰めを与えて下さいます。そのためにイエス様は「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」と語りました。ただし現実問題としてこのみことばは酷い悲しみにある人を前にしたとき、間違っても言えない言葉です。たとえば、愛する家族が召されて葬儀をしているときに「悲しむ者は幸いです。――」などと言えるでしょうか?絶対に言えないはずです。子供がいじめを受けるとか非行に走るとかで、つらく悲しい思いをしている親に対して「悲しむ者は幸いです。――」などと言えるでしょうか?絶対に言えないはずです。悲しむ人は、自分と同じ立場に立って自分を理解し受け入れる人を求めています。けれども、「悲しむ者は幸いです」は同じ立場ではなく、天のように高い所から語りかけ、地にいる私達は恭しく聞くしかないことばだからです。でも、今、皆さんはそのみことばを人間である牧師から聞いています。どうして聞けるのか?それは、聖書に記されイエス様が語られたことばを神からのみことばとして受け止めているからです。
ところで、イエス様はどうしてそんなことが言えたのか? 旧約の詩篇に根拠となるみことばがあります。詩篇は私達が驚きを覚えるほど人間の内面にあるドロドロしたものをあからさまに描いています。その中で神は人間の苦しみ、悲しみを受け止めて下さるお方です。たとえば、詩篇56:8-9「あなたは、私のさすらいを記しておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋に蓄えて下さい。」「私の涙」とは私達の悲しみのことです。「皮袋」とは砂漠を旅する者が水などの飲み物を入れる水筒ですが、神は私達の悲しみをその皮袋に蓄えて飲み物として飲んで下さるのです。へブル5:7-10「キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。――――」これはキリストが私達の罪のために苦しんで「悲しみの人」となられたことです。イザヤ53:3「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私達も彼を尊ばなかった」キリストが私達のために「悲しみの人」となられたのは預言の成就つまり神のご計画でした。
それゆえ私達は、神のところに自分の悲しみを持って行き、神の皮袋にその悲しみを注ぎ込み、私達の代わりにキリストにその悲しみを飲ませて、キリストに「悲しみの人」になっていただけばよいのです。私達は、自分で自分の悲しみを飲むことはできません。私達の悲しみを飲み干すことが出来るのはキリストだけです。だから遠慮しないで私達の悲しみを神の皮袋に注ぎ込み、キリストに飲ませたらいいのです。そうすれば私達はキリストから慰めが与えられ、幸いな者となることが出来るのです。また、キリストが私達の悲しみを飲み干して「悲しみの人」となって下さることで、私達は慰めを得るだけでなく、さらに恵みが与えられます。その恵みとはキリストの悲しみが、次に私達が他人のために悲しむことの動機付けを与えてくれるということです。
初めに言いましたように、私達はこの社会で悲しむ人達とも向き合う必要があり、泣く者とともに泣くことが求められています。けれども、私達はもともとは他者のために悲しむことができず、悲しむ人達がいても目を閉ざし、自分の世界に閉じこもり、自分のことだけで汲々とするような者です。“このクソ忙しいときに他人のことなんか構ってられるか!”という捨て台詞があります。今の世相を反映している言葉ですが、私達も多かれ少なかれそのような世相の影響を受けて愛が乏しくなっているかもしれません。
けれども、キリストが私達の罪のために「悲しみの人」となり、大きな叫び声と涙を流して下さったことのゆえに、こんな私達でも他者のために涙を流し得る者となることができます。自分のことだけで汲々とする者でありながら、キリストの涙を思い浮かべることによって私達も他人のために悲しむことを少しずつ学ぶことが出来るのです。
「悲しむ者は幸い」とは自分がキリストから慰めを受けたことを土台として、次に他人のために悲しむことができるようになることが幸いだということなのです。そのために、まず神のところに行き、神の皮袋に私達の悲しみを注ぎ込んで、キリストに飲んでいただき、キリストに「悲しみの人」となっていただき、私達が慰めを受けることが先に来ます。その次に他人のために悲しむことができる幸いな者を目指すのです。私達はイエスキリストを信じて救われているけれども、救われて感謝で終わっているかもしれません。キリストの涙をよく見て、悲しみの人キリストをさらに心に覚えて、それを基にして他人のために悲しめる者となれたら幸いです。