マタイ4:18-25
“キリストは生活の場であがめる主” 内田耕治師
心にあるものが外に現れることは自然なことです。だから心に信仰があれば必ず信仰生活という形が現れます。どこに現れるのか?それは私達の普段の生活の場です。この箇所は日常的な生活の中から主に従って信仰生活を始めた2種類の人達を紹介しています。
1つはイエス様の声を聞いてイエス様について行った4人の弟子達と、もう1つは病いの癒しを見たり、その評判を聞いてイエス様について行った群衆です。弟子達と群衆とでは、その従い方に大きな違いがあります。弟子達は生涯主に従い通しましたが、群衆には主に従い通した人、従ったが途中で脱落した人、目当ての癒しが得られて離れた人など様々ですが、この箇所はそのことはとやかく言わないでとにかくイエス様に従い、ついて行ったことに注目しています。
まず信仰生活はまさに普段の生活の場から始まります。4人の弟子達がイエス様に従ったとき、彼らは何をしていたのか?彼らは荒野や山で修行していたのではなく、自分達の仕事である漁業を営んでいました。その真っただ中に主が来られました。4人は仕事中なのにイエス様は平気で「わたしについて来なさい。―――」と言い、彼らはためらうことなく、すぐに従ってついて行きました。それが彼らの信仰生活の始まりでした。このようなイエス様の求めに対して普通、人間はいろいろと断る理由を言うものです。若い人なら “私はまだ若くて人生経験が足りなくて人間が出来ていないから、ちょっと待ってください“と言うのではないかでしょうか。また若くなくても”私はまだ人間ができていないから迷惑になります。遠慮させていただきます。“と言うのではないでしょうか。けれども、主は私達に出来た人間であることを求めてはいません。未熟なままでいいのです。ダメなら、ダメなままで主についていけばいいです。主が求めるのは、ただ主について行くことだけなのです。また働き盛りの中年の人なら“主よ、私は仕事の責任が重くて手一杯です。今は何もできません。定年退職になってからお世話になります”と言うかもしれません。けれども主はまた新たに重い責任を負わせるのではなく、かえって「すべて重荷を負う人はわたしのところに来て休んでください」と言っています。だから今は手一杯で何もできないと思う人を主はむしろ求めています。老人なら“イエス様。今からあなたに従うには、あまりにも年を取り過ぎました。今更この人生を変えることは出来ません。もっと若い人に声をおかけください。”と言うのではないでしょうか。けれども、主はあなたに命がある限り、神の祝福を受けることができるから、わたしについて来なさいと勧めます。
信仰生活とは主のみ声を聞いたならば、どんな所にいようと、どんな生活をしていようと、その置かれた場所や状態から即、始めることなのです。信仰生活がそういうものだとすると、自然に捨てるべきものが出て来ます。4人の弟子は漁業という仕事を捨てて信仰生活を始めました。みんなが仕事を捨てなければならないのではありませんが、信仰生活を始めるには何かを捨てるべきものがだれにでもあります。たとえば、自分の人間が出来てからとか、退職して暇になってからとか、年を取り過ぎたという思いは捨てべきものです。神のみこころにそぐわない私達の思いが信仰生活を妨げる最大の原因だからです。
「だれも2人の主人に仕えることは出来ません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることは出来ません。―――」
富への欲望はしばしば私達の主人になり、私達は神よりも富への欲望に仕える危険性があることを教えています。だから神は必要なものは必ず与えて下さることを信じて、あなたは神に仕えなさいと勧めています。富への欲望だけでなく人間が出来てからとか暇になってからとか年を取り過ぎたという私達の思いも、神に取って代わって私達の主人となり、私達の信仰生活を妨げてしまいます。だから、そういう思いを捨てることが信仰生活なのです。
最後に信仰生活とは、主を崇めることから始まります。4人の弟子達は「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」という非常に短い一言によって主に従いました。人間というものは、普通の人から聞いたことは大事なことでもあまり気に留めないのに、非常に偉い人から聞いたら、有難く心に留めて従おうとするものです。同じように弟子達もイエス様を“この方こそ待ち望んでいたメシヤだ”と信じて崇める信仰を持っていたので、「―――人間を取る漁師にしてあげよう」という一言で彼らは漁師の仕事を捨ててイエス様に従いました。
そのことは基本的に今も同じです。仕事は忙しいし、家の仕事も溜まっています。周囲の人達が私達の信仰生活を励ましてくれるわけではありません。私達の信仰を理解しない人がほとんどで時々、信仰生活の妨げになることを聞いたり、妨げになることが起こったりします。けれども、私達はそういうことにめげないで信仰生活を続けようとします。どうしてか?私達のうちに当時の弟子達や群衆と同じように主を崇める信仰があるからです。その信仰があるから「わたしについて来なさい。―――」を自分に与えられたみことばとして受け止めて信仰生活を続けています。
「わたしについて来なさい。」という主の語りかけを受けながら、いろんな思いが邪魔をしてためらわずに主に従った4人の弟子のようにはできないこともあります。けれども、そのうちにそういういろんな思いを乗り越えていけるようになります。なぜなら、主を崇める私達の信仰は、初めはからし種のように小さな物であっても、そのうちに少しずつ成長して大きくなるという主の約束があるからです。だから今はぐずぐずしている人も、やがて「わたしについて来なさい。――」というみことばに率直に応答して主に従う信仰生活をして生活の場で主を崇めることが出来るようになります。だから、「わたしについて来なさい。」というみことばを聞いてためらわずに従った4人の弟子達を、“とても真似できない”とは思わないで、今は出来なくても私達が目指す姿だと思って歩んで行きましょう。