マタイ5:7、ルカ10:36-37
“あわれみ深い者は幸いです” 内田耕治師
神はあわれみ深いお方ですから、私達にもあわれみ深くあるようにと求めてきます。私達があわれみ深いとは苦しむ人を可哀想に思って自分に出来ることをして助けてあげることです。ルカ10章の良いサマリヤ人の例え話は良い例です。
神のあわれみ深さはまず旧約時代に神がイスラエル人に与えた律法に現れています。律法というと義ですが、律法の義とはもともと人々があわれみ深く生きるためのものでした。旧約の律法をよく調べると、そのことがわかります。たとえば、安息日の律法はイエス様の時代にはあまりにも厳格になり過ぎて、かえって人々を束縛するものになりましたが、元々その律法は毎日過酷な労働を強いられ、こき使われる奴隷や在留異国人など立場の弱い人達に休息を与えるための律法でした。
またレビ記19章に畑の隅々まで刈り尽くしてはならないとか収穫後の落穂を拾い集めてはならないという収穫の刈り入れの規定がありますが、それは貧しい人や寄留者など立場の弱い人達が収穫後、やってきて落穂を拾って何とか食つなぐことができるためでした。ユダの地に一文無しで戻ってきたナオミとルツが何とか食つなぐことができたのは、この規定があったからです。
イザヤ58章は普通とは異なる弱者を思いやる断食を述べています。「わたしの好む断食とはこれではないか。―――――飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。―――――飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。」
イエス様はこのような弱い立場の人達を大事にする神のみこころを背景にして「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです」と語りました。5章に出て来た「あわれむ」という意味のギリシャ語は6章になると、少し形を変えて「施し」という言葉になります。例、マタイ6:3-4「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れた所にあるようにするためです。――」すなわち弱い立場にある人達を見て可哀想に思うことが「あわれむ」であり、それによって自分に出来ることをして助けようとすることが「施し」です。イエス様が言う幸いな「あわれみ深さ」とは、「あわれみ」が「施し」という具体的な形になることです
けれども、現実的にはそれほど簡単ではありません。そういうあわれみ深さが、かえって裏目に出ることもあります。テサロニケの教会に教会の施しに甘えて自分で働こうとしない人達が集まったように、施しがかえって自立を妨げてしまうことがあります。そういう人達の扱い方についてパウロはかなり厳しいことを書いています。
また与える者と受ける者という関係はともすると上下関係になりやすく、それを好まない人達もいます。だから現実的にはそれほど簡単ではありません。けれども、そういう問題があるからと言ってあわれみ深くすることの意義や必要性がなくなったのではありません。その意義や必要性は大いにあります。そして何よりも主はそうせよと勧めています。だから、だれが本当に助けを必要としているのか、助けるなら何が必要なのか、どのように助けたらいいかをよく見極め、あわれみの心を持ち続け、必要な時にはただちに適切な施しや援助をする。それがあわれみ深い者であり、そういう人は幸いなのです。
ところで、あわれみ深くあることの必要性が非常にたくさんありながら、必ずしもその必要性に答えていない私達の現実もあります。私達は良いサマリヤ人の例え話に出て来る祭司やレビ人と同じことをしてしまい、情けない思いになることがあります。けれども“自分は祭司やレビ人と同じだ、情けない”と思えることは実は素晴らしいことです。なぜなら、まったくそう思わないで自分と関係のない人達は近くにいてもまるで存在していないかのように思い、苦しんでいてもまったく関心を持たないことがあります。また相手が敵対する人々だと“ざまあ見ろ”という思いが起こることがあります。さらに平和な時は善良な人々でも、戦争のような非常事態になれば、どれだけでも無慈悲になることが出来ます。しかも、無慈悲なことをしておいて“あの時は仕方がなかった、私は何も悪いことをしていない”と言ってしまうのが人間です。罪ある人間はどこまででも無慈悲になることが出来るのです。
だから、自分は祭司やレビ人のような者だと示されて情けない思いを持ち、次の機会にはあのサマリヤ人のようにあわれみ深い者になろうと思うなら、それは素晴らしいことなのです。ルカ10章の良いサマリヤ人の例え話の最後の部分には律法の専門家が再び出て来ます。律法の専門家ですからユダヤ人を代表するような人物であり、人々に尊敬される人でした。またサマリヤ人を蔑視するような人だったと考えられます。その律法の専門家はイエス様から例え話を聞いて、どう見てもユダヤ人の祭司やレビ人よりもサマリヤ人のほうが神のみこころに適うことをしたと思い、そして自分は祭司やレビ人のような者だと思いました。イエス様が「この3人の中でだれが強盗に襲われた人の隣人となったと思いますか」と質問して彼が「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えたことで明らかです。彼は私達と同じように自分達の情けなさを感じていました。彼は私達を表しています。
けれども、イエス様はそんな彼に期待して「あなたも行って、同じようにしなさい」と語りました。神は、自分はあの祭司やレビ人のような情けない奴だと思う者を用いてあわれみ深い者とするのです。自分の情けなさを全く感じなくて自分はいつも良いことをしていると己惚れる人を主は用いることが出来ません。けれども、自分は情けない奴だと認める人を主は用いるのです。だから自分はあの祭司やレビ人と同じような情けない者だと思えることは幸いなことなのです。