マタイ5:6
“義に飢え渇く者は幸いです” 内田耕治師
だれでもキリスト信仰を持つならば、ごく平凡な普通の人が義に飢え渇く者に変えられ、そうすることで、それまでの生活では味わうことができなかった満足を得るようになります。私達が救われるために必要なことは自分が神の前に罪ある悲惨な者であることを認めることです。キリスト信仰は、神の前に罪ある自分にはまったく義がないことから始まります。神の前では、この世で見下され蔑まれる人達だけでなく、尊敬され崇められる人達も罪ある者であり義はありません。私達のうちには何の義もない。私達の持ち点はゼロです。それが私達の原点です。
ところで原点という言葉は英語ではスターティング・ポイントです。その地点からスタートする、つまり事を始めるのですから、それは“これからするべきことを始める”という意味です。つまりキリスト信仰とは天国への道はすでにイエス様の十字架によって敷かれていますが、この世の人生では私達はゼロから歩みを始めることを意味し、持ち点がゼロであることを深く自覚することによってそこから熱心に点を得ようとするハングリー精神が養われます。例えで言うと、まだ開発されていない広大な土地を見つけて開拓を始めることです。昔、アメリカ人は未開の地である西部を目指して、西へ、西へと人々は進んで開拓し農地や牧場を作ったように自分は神の前に何の義もない者だと認めた私達は、義について目が開かれ、自分がするべき善いこと正しいことを熱心に求めるようになるのです。それが「義に飢え渇く者になる」ことです。
それは義についての私達の視点が根本的に変えられたからです。かつての私達が目を向けていたのは人から見た義でした。さらに言うと、自分の目から見た義でした。それは、自分や家族の生活が世間並に満たされたり、さらに自分の欲望が満たされたり、人に認められて自分の栄誉が満たされることでした。けれども、私達はキリストを信じて天の御国を受け継ぐ者とされると、自分や人の目から見た義だけでなく“神の栄光のために”という視点を持つようになりました。神の栄光のためにとは、神の愛や義が現れて“主は偉大だ”と人々が神をほめたたえるようなことをすることですが、私達は、意識しても意識しなくても神の栄光のために善いこと正しいことを心がけるようになります。それは強制ではなく、自分の自由意志で行うことです。自分で進んで行なえば神の栄光を表わすことになりますが、行わなくても神にさばかれることはありません。神はどこまでもその人の使命や意志を尊重します。
また“神の栄光のために”と取り立てて口で言わなくても自然に“自分がこれをすべきだ”と示されて行い、それが結果として神の栄光となるというのが多くの現実ですが、それが、すなわち義に飢え渇いて善いこと正しいことをすることなのです。わかりやすくするためにその具体的な例を1つ紹介します。
それはイエス様が語られたルカ10章の善いサマリヤ人のたとえ話です。あるユダヤ人がエルサレムからエリコに下っていくとき、強盗に襲われて身包みをはぎ取られ、殴られ半殺しにされて道に倒れていました。その道を通りかかった祭司とレビ人は見て見ぬふりをして通り過ぎましたが、1人のサマリヤ人はその人を見つけると可哀想に思って近寄り、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をして自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、宿屋の主人で2デナリを渡してその人の介抱をお願いしました。そのたとえ話を通してイエス様は神の栄光とはどういうことか3つの点で教えてくれました。
(1) 当時、ユダヤ人とサマリヤ人は犬猿の仲で両者の間には壁がありました。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という教えは旧約時代からありました。けれども、その場合の隣人とは家族や同胞に限られていて異民族は排除していました。けれども、イエス様はこのサマリヤ人を用いることで民族を越えて自分の隣にいる人はだれでも愛するのが神の栄光だと教えました。
(2) サマリヤ人はだれにも強制されることなく、心を動かされて自分の意志で何の見返りも求めず自分に出来ることをしました。それが神の栄光です。
(3) サマリヤ人はだれも誉めてくれなくても“やるべきだ”と示されたことをしました。それが神の栄光です。義に飢え渇くとは、各自がその置かれた場所で以上のような神の栄光を表わすことなのです。
私達はいつもの人間関係やいつもの仕事や生活やいつもの仕事を精一杯しています。ほとんどが決められたこと、すべきこと、しなくてはならないことです。そういうことをキチンと行なって責任を果たしていくことは大事なことであり、私達はだいたい責任を果たしていると思います。けれども、責任を果たせば他にもう何もすることがないのか、神が私達に期待することをすべて行ったと言えるのか?自分はやるべきことをキチンとしている良い僕だ、自分は偉いと言えるのか?そうではありません。主は私達に“あなたにはまだすることがある”と語りかけています。では、私達がすることとは何か?それが義に飢え渇くことなのです。
ある牧師は母教会から遣わされて東京近郊で開拓伝道をして約10年くらいで会堂を立てて、ある程度の人数も集まって祝されていました。でも、10年間精一杯頑張って群れができると、これからどうすればいいのかわからなくなり、母教会の先生に相談に行き、“一応、会堂が建ち、群れも出来たから、自分を別のところに行かせてほしいと言いました。”すると、母教会の先生は“あなたは、まだやるべきことを何もしていない、だから今のところに留まって奉仕を続けなさい”と言いました。
私達も同じです。もし私達がいつもの仕事をキチンと行い、決められた責任はキチンと果たして“自分にご褒美をあげなくては”などと思うなら、主は私達に“あなたは、まだやるべきことを何もしていない”と語りかけます。主が言う“やるべきこと”とは何か? それが義に飢え渇くことです。もし私達が日々、やるべきことをやり、与えられた責任をキチンと果たしているのに、何か満足できないとか、喜びがないと思うとしたら、それは義に飢え渇くことがないか、あるいは非常に少ないからです。私達の心は、義に飢え渇いて満ち足りることを欲しています。だからイエス様は「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」と教えてくだったのです。