マタイ5:9
“イエスキリストこそ平和をつくる者です” 内田耕治師
人類の長い歴史には、長年の分裂や対立を解消して国を統一し、平和をつくる者としてたたえられた英雄が何人もいます。けれども、その人達はもともと平和の人だったから平和を確立できたのではなく、戦いが上手かったとか、圧倒的な軍事力があったとか、政治力があったということに拠ります。彼らのうちには卑劣な手段で主導権を握ったとか、とんでもない大虐殺をした人達がいます。彼らは、実際は平和とは程遠い存在なのに、その絶大な権力や武力や政治力によって敵や反対派をねじ伏せて平和をつくる者となることができたのです。
けれども、イエス様が目指す平和はそのような権力や武力によって相手をねじ伏せてつくるものではなく、敵や対立する者達と和解することによって得られるものです。つまり私達が和解をもたらす者、和解する者となることによって平和は出来るのです。そして和解が平和をつくるのであれば、平和をつくることはそう簡単なことではありません。たとえば身近なところで喧嘩やトラブルが起こっているとき、割り込んで和解させ、対立を止めさせると言っても、それは非常に難しいことです。
また私達自身にも身近な人達といがみ合いを引き起こす可能性がいつも潜んでいます。夫婦の間でも親子の間でも親族の間でも問題が起こるし、職場や学校や教会でも問題が起こります。私達は現実的に少しでも油断すると平和をつくるどころか平和を壊す者となりやすい者なのです。そして問題を引き起こして対立が生まれると、そう簡単に和解できるものではありません。和解は“和解しろ”と命じられて和解できるものではありません。心に悔い改めや赦しが生まれてこそ出来ることです。だから私達にはすぐに和解することは難しいことです。だから、そんな私達が平和をつくる者になるのは簡単に出来ることではありません。けれども、神は私達が和解によって平和をつくるように導こうとしています。非常に難しい道でありながら、和解によって平和をつくる道に私達を歩ませようとしています。
たとえば、創世記で父イサクが兄エサウに与えようとしていた祝福を、ヤコブは母リベカの入れ知恵によってエサウに成りすまして横取りし、エサウを怒らせて母の実家に逃げて行きました。そして母の実家で20年も生活して妻達、子供達が与えられ、生活の基盤も出来ました。けれども主は導きによってヤコブをそこに留まらせないで若いときに住んでいた約束の地に帰ってくるようにしました。エサウと再会する前、ヤコブは非常に恐れていましたが、会ってみると不思議にエサウに恨みはなくなり、大らかな心になっていたので2人は再会を喜び、和解することができました。
また同じ創世記で、ヨセフは兄達に憎まれて奴隷としてエジプトに売り飛ばされました。初め僕としてポティファルに仕えました。彼の妻に唆されて監獄に入れられましたが、そこから不思議な導きで一挙にエジプトの総理大臣になり、穀物の管理を任され、7年間の大豊作の後、7年間の大飢饉が来ました。世界中からエジプトの穀物を買いに来る人々の中に、ヨセフの兄達がいて久しぶりにヨセフは自分を売り飛ばした兄達と再会することになりました。ヨセフは初め自分を明かさなかったですが、そのうちに明かして兄達を赦し、和解して父ヤコブと家族全体をエジプトに呼び寄せ一族は飢饉から救われました。
新約聖書のピレモン書で、ピレモンの奴隷オネシモは問題を起こして逃亡し、大都市ローマに行きました。一方、その頃ローマではパウロが投獄されていました。オネシモは主人から逃げ出して自由を得て好きなように暮らしていましたが、主の導きでキリスト者に出会い、さらに獄中のパウロに出会い福音を聞いて信仰に導かれました。かつてオネシモは主人に損害をかけて逃げ出した役に立たない者でしたが、回心してからはずいぶん変えられてパウロによく仕える役に立つ者になりました。パウロはこのオネシモを自分の所にしばらく留めておきましたが、やはり主人のもとに帰すべきだと思い、オネシモがピレモンにかけた損害はパウロが支払うことにして、オネシモをピレモンのところに送り返すことにしました。これも和解による平和です。
ところで、私達がイエスキリストを信じて救われたことも同じように和解によって平和をつくったことです。その場合の平和とは神との平和です。私達は、人類の先祖であるアダムが犯した罪のゆえに生まれながらに神に対して背きの罪を持つ者です。その罪があるから人間は神から離れて、神の私達との間には深い溝があり、平和がありません。
けれども、神はそんな私達を哀れんで神の御子キリストを送り、キリストは私達の罪の身代わりとして十字架にかかって下さいました。そのキリストを信じることによって私達は義と認められ、神と和解し、神との間に平和を持つことが出来ました。イエスキリストこそ平和をつくるお方です。だから「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子と呼ばれるからです」は、イエスキリストにささげるべきことばです。
けれども、イエス様は興味深いことにこのみことばを、私達に語って下さいました。だから私達も平和をつくる者です。では、私達が”平和をつくる“とはどういうことか?まず和解の福音を宣べ伝えて平和をつくることです。私達はイエス様を信じることによって神と和解してすでに神との平和を得ています。けれども、神も神の御子も自分の罪もわからない人達は、本人は気がついていなくても神との間に溝があり、神との平和がありません。だから、すでに神との平和がある私達は、そういう人達に和解の福音を宣べ伝えて神との和解に導きます。それがまず神との平和をつくることです。
でも、それだけではありません。私達には人との平和をつくるということがあります。それはなかなか簡単にはできなくて、だれもが苦労していることですが、人との平和は大事なことです。聖書はどうしたら和解して人との平和をつくれるかhow toは教えていませんが、原則は教えています。その原則とは神がその導きの中で和解の機会を備えて下さるから、私達はその導きに従えば良いということです。
ヤコブは長い年月の末、約束の地に戻るとき、その機会が備えられ、ヨセフは長い年月の末、飢饉で兄達が穀物を買いに来たとき、その機会が備えられ、オネシモは主人のもとから逃げ出してローマに行き、パウロに出会い信仰に導かれた後その、その機会が備えられました。すなわち、神が十分に時間をかけて導いて双方が整えられた上で和解の機会が備え、その機会に生かしたからこそ、彼らは和解し、平和をつくることができたのです。
だから全体的に見ると、和解に導き、平和をつくったのは神です。決して人間の正義感で強引に和解を進めて、それで和解ができるわけではありません。
和解に導き、平和をつくるのは、人間ではなく神のわざなのです。ですから「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」は、まず神や神の御子キリストにささげるべきみことばです。それを前提とした上で、神の御子キリストを通して神との平和を持つ私達も、神の導きによってキリストと同じように平和をつくることができ、神の子と呼ばれるようになるということなのです。