ヨシュア3-4章
“ヨルダン川を歩いて渡れ” 内田耕治師
イスラエル人はエジプトで奴隷にされていましたが、指導者のモーセに率いられて約束の地カナンを目指してエジプトを出て、葦の海を渡ってシナイ山のふもとに集まり、モーセが山に登って十戒をいただきました。それ以来、彼らは十戒を契約の箱に納めて大切に持ち運びました。その箱はレビ人から選ばれる祭司だけが運ぶことができました。
イスラエル人はエジプトを出て以来、早い時点で1度、約束の地に行くチャンスがありましたが、不信仰のゆえにそのチャンスを逃してしまい、40年も荒野で生活することになりました。その間にエジプトを出た世代は死に絶えて荒野で生まれ育った新しい世代が起こされました。モーセが死んでヨシュアが新しい指導者として立てられ、イスラエル人はいよいよ念願の約束の地に迫っていました。2人の斥候の報告によるとエリコの人々はイスラエル人が近づいていることを恐れて動揺していました。今が攻めていく良いチャンスです。けれども、彼らの前にはヨルダン川という障害が立ちはだかっていました。
時はちょうど第1の月の10日、ヨルダン川は雪解けと春の雨で水かさが増している頃、とても歩いて渡ることはできません。けれども、ヨシュアを始めとするイスラエル人は、かつてモーセとイスラエル人が葦の海を渡ったときと同じように偉大な神の一方的な介入によってヨルダン川を歩いて渡ることができました。でも、葦の海とは違う所が1つありました。それは主の契約の箱が重要な役割を果たしたことでした。3:1-13はヨルダン川を渡る準備をしているところです。普通なら先頭に精鋭の兵士達が進むものですが、ヨシュアは契約の箱を担ぐ祭司たちを先頭にしてその後に民を進ませました。これから始まることは戦争行為ではなく宗教行為であり、戦いではなく礼拝だからです。ヨシュアは民に自らをきよめることを命じました。
次にヨシュアは祭司たちには「ヨルダン川の水際に来たら、ヨルダン川に立ち続けよ」と命じ、各部族から1人ずつ全部で12人の者を選びました。そして箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき、川の水は川上から流れ下る水がせき止められて、1つの堰となって立ち止まると宣言しました。
3:14-17は民がヨルダン川を渡るところです。箱を担ぐ祭司たちが水際の水に浸ると、ヨシュアが言った通りにたちまち川上から流れ下る水が立ち止まり、水は完全にせき止められて、民は歩いてヨルダン川を渡ることが出来ました。
次に4:1-24は祭司たちがヨルダン川を渡り終えるところです。祭司たちはヨルダン川に立ったままでいましたが、民が全員渡り終え、12人の者達が川底から1人1つずつ全部で12の石を取って宿営地のギルガルに積み上げると、祭司たちは歩き出して川を渡りました。すると、川の水が元通りになりました。これはかつて葦の海で起こったことと同じでした。イスラエル人は何もしていないのに、神がヨルダン川をせき止めて川底に道を作るという神の偉大なみわざが起こり、彼らは約束の地に入ることができました。
ところで、神が造られた道を歩くだけで約束の地に入ったイスラエル人と同じように、私達も神の御子キリストがその十字架のみわざによって造られた救いの道を歩んでいます。神がおられる天国と私達の間には深い川があります。その川とは神に対する私達の罪です。イスラエル人が深いヨルダン川を自分の力では渡ることが出来なかったのと同じように私達は、私達の罪がつくった深い川を自分の力で渡ることはできません。けれども、神の御子キリストが私達の罪の身代わりとして十字架にかかり死んで復活したことでその罪は贖われ、天国への道が定められました。川底の道を歩いたイスラエル人と同じように私達は御子が造られた天国への道を歩んでいます。自分ではなく神が造られた道を歩むということはイスラエル人と私達の共通点です。
もう1つの共通点があります。それが偉大な神のみわざを後世に伝えようとしていることです。川底から取った12個の石は、イスラエル人がヨルダン川を歩いて渡ったことを記念して後の世代の人達が神の偉大なみわざを思い出して、神を恐れて従うようになるためでした。4:21-23「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに“この石はどういうものなのですか”と尋ねたときには、あなたがたは子どもたちに“イスラエルは乾いた地面の上を歩いて、このヨルダン川を渡ったのだ。”と知らせなさい。あなたがたの神、主が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。」
12の石は忘れられることなく、後の世代に引き継がれ、ずっと後に書かれた詩篇66に出て来ます。詩篇66:5-6「さあ、神のみわざを見よ。神が人の子らになさることは恐ろしい。神は海を乾いた所とされた。人々は川の中を歩いて渡った。さあ、私達は神にあって喜ぼう。」
私達はキリストを信じてキリストが定めた天国への道を歩んでいますが、この歩みは私達がやがて召されたら終わります。イスラエル人が12の石をギルガルに記念として残したことは、私達がこの世にいる間に自分がキリストとともに歩んだことを、何らかの形で残して、後の世代に伝えることを教えてくれます。先日、テレビでファミリーヒストリーという番組を見ました。自分の親やお爺さん、お婆さんやさらに先祖がどのような歩みをしたのか、子供達にはずいぶんインパクトがあり知りたがるものです。だとしたら、キリストとともに歩んだことを是非、何かの形にして残すべきではないでしょうか。
伝える対象は自分の子供に限りません。広い意味での後の世代を考えることができます。広い意味で後の世代に信仰の遺産を残すのです。そうすれば偉大な神と神の御子キリストを、後の世代に静かに伝えることができるからです。何を残すのか?今はヨシュアの時みたいに石を積んでも意味がないですが、何を適切な記念として残すことが出来るのか、皆さんで考えて下さい。大事なことは、皆さんのキリスト信仰は皆さん1人のものではなく、後の世代にも受け継がすことができる霊的な財産だということです。間違っても自分の信仰を一代限りだと思わないで、後の世代にも伝えるべきものだと考えてください。