マタイ5:8

“イエスキリストを信じる者は神を見るのです”  内田耕治師

 

神とは目に見えない霊的な存在なのに「神を見る」は不思議なみことばです。けれども「神を見る」というみことばは、多くはないですが聖書の所々に出て来ます。たとえば、創世記32章のぺヌエルは「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味です。出エジプト記33章には「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセと語られた。」と書いてあり、神はそのモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」と語りました。イザヤ6章でイザヤは「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」と言いました。

これらは、神はきよいお方なので罪ある人間がまともに神の前に立つとそのきよさによってたちまち滅ぼされてしまうけれども、そんな神とも人は霊的に交わることができるということです。「顔と顔とを合わせて」とはその交わりの親密さを表します。それでイスラエル人は、きよい神と交わるためには自分達がきよくなることが必要だと考えました。レビ19章に「あなたがたは聖でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである」と書いてある通りです。

旧約時代のイスラエル人は初めきよさを求めることにあまり熱心ではなく、他の神々に心を寄せたりしていい加減な歩みをしていましたが、バビロン捕囚以後は熱心に律法を守り、きよくなることを求めました。けれども、行いによる義を追求するようになって神のみこころから外れてしまったのでイエス様は徹底的にそれを批判しました。きよさを求めることは日本人にも馴染みがありますが、ユダヤ人は日本人以上に自分の心や体をきよくするために、いろんなことを行い、非常に念入りにきよさを追求しました。たとえば、まず食べ物に気をつけました。ユダヤ人には食べ物に“きよい物”と“汚れた物”の区別があり、彼らは自分のきよさを保つためにきよい動物だけを食べていました。けれども、イエス様はマルコ7章でそれを真っ向から否定しました。イエス様は“口から入るものは人を汚すことはできない、むしろ口から出るものが人を汚す、だから食べる物に気をつけてきよくなろうとしても、それは意味のないことだと教えました。

次に汚れた物に触れないことで自分のきよさを守ろうとしました。律法の規定によると死体は汚れた物でした。ルカ10章の良いサマリヤ人のたとえ話で、イエス様は強盗に襲われて半殺しにされて倒れていた人を見て、祭司とレビ人は見て見ぬフリをして通り過ぎたと話しました。どうしてか?倒れている人を助けようとして、もし彼が死んでいたら自分も汚れて7日間も奉仕が出来ないという規定が背景にあり、彼らは倒れていた人を見捨てました。一方、そんなことは気にしない1人のサマリヤ人は倒れていた人を可哀想に思い、助けてその人の隣人となることができました。イエス様はその話によって律法を守ることで自分のきよさを保とうとしても、それは虚しいことだと語りました。

また汚れているとされた人達との交わりを避けて自分のきよさを保とうとしました。特にパリサイ人はその傾向が強く、汚れているとされていた取税人や罪人との交わりを避け、イエス様が彼らと一緒に食事するのを見たとき彼らはよく批判しました。それに対してイエス様は、パリサイ人はかえってその潔癖さによって取税人や罪人を受け入れないで、さばいたり排除したりして結局、神のみこころを損なっている。彼らの求めたきよさとは、自分を満足させるだけで人をさばく愛のない心だ、神のみこころに適わない、そんなきよさを神は受け入れないと言って彼らを厳しく批判しました。だとしたら、何が神に受け入れられる心のきよさなのでしょうか?

それは、やはり神との間にある背きの罪が取り除かれたところの心のきよさです。私達には私達の先祖であるアダムが犯した罪以来、神に対する背きの罪があります。その罪のゆえに神との交わりが妨げられています。その罪は人間である以上、だれでも生まれながらに引きずっている負の遺産です。私達が律法を守ったからと言って、取り除かれる罪ではありません。また何か良い行いをしたからと言ってその罪がなくなり、きよくなるわけではありません。人間はその罪に対して何もすることが出来ません。

けれども、イエス様はこの罪を取り除いて下さいます。ヨハネ1章でバプテスマのヨハネはイエス様のことを「世の罪を取り除く神の子羊」と言いました。「世の罪」とは神に対する私達の背きの罪です。イエス様はその罪の身代わりとして十字架にかけられて、その罪が私達から取り除かれる道を開いて下さいました。それゆえ、だれでもイエスキリストを信じる者は、その罪が取り除かれて神との交わりを回復できるようになります。それがイエス様の言う心のきよさです。そのきよさは、ユダヤ人やパリサイ人が求めたような潔癖さではないし、特別に心清らかな人だけが持つものではありません。よく苛立ちや怒りを覚える人も、よく弱気になる人も希望を失いやすい人も、イエス様によって背きの罪が取り除かれていたら、この心のきよさが与えられます。

またそのきよさとは、イエス様を通して神を見ることができるきよさです。神は目に見えないお方で、ご自身を現わすことは決してありませんが、その代わりに神は御子キリストをこの世に遣わし、御子を通してご自身を現わしました。ヨハネ1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのです。」

ヨハネ14:9「わたしを見た人は父を見たのです」もイエス様を信じる私達が神の御子キリストを通して神を見ることが出来ることを表わしています。それをもう少し具体的に言いますと、私達は聖書を通してイエス様を知り信じますから、イエス様を通して神を見るとは、ようするに聖書を通して神を見ることです。

第一コリント13:12「今、私達は鏡にぼんやり映るものを見ています」とは聖書を通して神を見ていることです。「鏡」とは聖書のことです。信仰のない人が聖書を読んでも神を見ることはできません。けれどもキリストを信じる私達は、聖書を通して神を見ることができ、神と交わることが出来ます。清らかな心でもそうでない心でも、愛のある心でもそうでない心でも、穏やかな心でも苛立った心でも、静かに聖書を読むことを通して神を見て、神と交わることが出来ます。

私達はキリスト信仰によって神を見ることができる心のきよさをすでに持っています。これは私達に与えられた凄い特権です。けれども、その特権を十分に用いないこともあります。その場合、神を見ることのできる心のきよさがあるのに、そのきよさを曇らせてしまうことになります。特権が与えられているのに、それを用いないのは残念なことです。けれども、私達の手元には聖書がありますから、その気になれば、すぐにでも神を見て神と交わることが出来ます。私達の心のきよさを曇らせないで、聖書を通して偉大な神を見ていきましょう。

「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」