マタイ5:17-20

“みことばは一点一画も廃れない” 内田耕治師

 

行いではなく、ただキリストを信じることによって救われるから“人間が出来ていなくていい、ありのままの姿でいい”と言う傾向があります。けれども、この箇所はその傾向に真っ向から異議を唱えて“ありのままではダメだ、良い行いが必要だ“と言って行いによる救いを主張するかのようなみことばです。

この箇所を無視して“キリストさえ信じていればありのままの姿でいい”と言うとしたら、どうか?それは本当の聖書信仰だとは言えません。本当の聖書信仰とは、自分が受け入れやすいみことばだけでなく受け入れにくいみことばも、聖書に書いてある以上、無視しないで神からのことばとして受け止めていくことだからです。

また行いにはよらず、信仰によって救われるという教えが、行いを疎かにする傾向を生み出すことがあります。低いハードルを通って救われた後、キリストにあって順調に成長すれば、それでいいのですが、“ありのままでいい”がいつまでも続いてなかなか成長しないで低空飛行を続けることがあるからです。また教会は学校や企業と違って、それぞれの個人を尊重し、自発性に任せますから、成長に時間がかかり、ありのままが長く続くことがあります。

また生涯ずっと主に逆らう生き方をしていても、死ぬ間際に“主よ、信じます”と言えば、それで救われて天国に行ける。だから、今そんなに真面目に信仰生活をする必要はないと言う人達もいます。死ぬ間際でも信じれば救われることは本当のことです。だから、そう言われてしまうと、どうしようもありません。その結果として行いは疎かになってしまいます。そういう問題は昔からあったようで、新約聖書のヤコブ書はその問題を取り上げ、行いの大切さを語っています。

〇律法の必要性

イエス様はヤコブよりも前からその問題に気づいていました。それは行き過ぎから来ることがわかっていました。当時、パリサイ人や律法学者は行き過ぎた律法主義に陥り、人々は息苦しさを感じていました。例は安息日律法です。当時、安息日に仕事をしてはならないという安息日律法はあまりにも厳格すぎて人々は息苦しさを感じていました。それでイエス様は批判の的になることがわかっていながら何度も安息日律法を破って愛のわざを行いました。イエス様は律法を不要だとは思っていなかったですが、行き過ぎた律法主義を戒めるために、そうしたのです。人々はイエス様を歓迎していました。

けれども、イエス様を歓迎した人々は、逆の行き過ぎに走る可能性がありました。人間は振り子のようなもので、イエス様が行き過ぎた律法主義を批判すると、その批判に力を得た人々が今度は行き過ぎた律法不要主義に傾き、律法をないがしろにする恐れがあり、イエス様はそれがよくわかっていました。

だからイエス様は律法の必要性を語りました。「わたしが律法や預言者を廃棄するために来たと思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」

〇律法を守ることの大切さ

次にイエス様はさらにそういう律法を守ることの大切さを語りました。「ですから、これらの戒めの最も小さなものを1つでも破り、また破るように教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。」

ユダヤ人は極端なものの言い方をするものです。天国にだれが偉くて、だれが偉くないという階級はないはずなのに、戒めを守る者は天国で偉い人になり、戒めを守らない人は天国で偉い人になれなくて、大きな差がついてしまう、つまり、そこまで言うことによって律法を守ることの大切さを教えています。

〇律法の新しい守り方

イエス様は律法を守ることの大切さに続いて、さらに新しい律法の守り方を語りました。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」

ユダヤ人は極端なものの言い方をするにしても、これは強烈なみことばです。律法学者やパリサイ人は重箱の隅をつつくような厳格な律法の守り方をして義を追求していました。けれども、イエス様はそんな彼らにまさる義がなければ天国に入れないと語りました。

律法学者やパリサイ人にまさる義とは一体何か?もし律法学者やパリサイ人と同じやり方で律法を守るならば、とても彼らにまさる義を得ることはできません。彼らと同じことをするので背一杯で、結局、彼らと同じになってしまい、天国は諦めなくてはなりません。だから、律法学者やパリサイ人にまさる義とは彼らとはまったく違う新しい律法の守り方によるものです。それが律法を内面化して神の前に心が正しいかどうかを問うことです。21節の「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」は外面的なことだけを問い、22節の「兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければならない」は、神の前にその心が正しいかどうかを問うています。27節の「姦淫してはならない」は外面的なことだけを問い、28節の「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯した」は神の前にその心が正しいかどうかを問うています。神の前にその心が正しいかどうかを問う者には、律法学者やパリサイ人の義にまさる義が与えられるのです。

ところでイエス様を信じて救われた私達は、みことばを通して自分の心を問われて神の前に罪ある者だと示されています。私達は立派なことが出来ても出来なくても、みことばを通して自分の罪を示されていますから、律法学者やパリサイ人の義にまさる義が与えられています。どうしてか?イエスキリストが私達の罪のために十字架にかかって下さったからです。

その義があれば安心して天国に行くことが出来ます。だから大事なことは、みことばを通して自分の罪を示されることです。「律法学者やパリサイ人にまさる義―――」を無視して“行いではなく信仰によって救われる。だから有りの侭でいい”と言うことは信仰的にあまり良い状態だと言えません。

では、何が信仰的に良い状態なのか?それはとても守れないようなみことばに直面して罪を示されながら、そんな私達の罪を赦して受け入れてくださる神の恵みに感謝して従いつづけることです。