マタイ5:10-12

「義のために迫害される喜び」  内田耕治師

 

イエス様の山上の説教を1つ1つ学んできて最後の「義のために迫害されている者は幸いです」まで来ました。このみことばは、これまでと比べて少々語りにくさを感じます。なぜなら、今は平和で迫害は身近なところでは起こっていないからです。

けれども、キリスト教の長い歴史には多くの迫害がありました。まず、私達の主であるイエスキリストが迫害され、最後に十字架にかけられました。使徒の働きにも福音が広がる過程で迫害がありました。ローマ帝国内に福音が広がる中でしばしば大きな迫害が起こりました。テルトリアヌスは殉教者が起こされれば起こされるほどキリスト者の数も増えるから“血は教会の種子である”と言いました。

また日本では江戸時代の初期にキリシタンの大迫害がありました。また今の日本は迫害がなくても、世界には迫害が現実に存在する国があります。また70年以上前の日本は今と全然違って全国民が天皇を現人神として拝むという偶像礼拝を強制され、それをしなければ存在できないという圧力をかけられ日本の教会は惨めな挫折をしてしまいました。そして将来、そういう社会に逆戻りする可能性がないとは言えません。だから今「義のために迫害されている者は幸いです。」というみことばを学んで、そういう社会でも力強くキリスト信仰を貫き通す備えをしておくことは、大変有意義なことです。

まず「義のために迫害されること」は山上の説教の中で他のことと比べて少々語りにくい特別な印象があると初めに言いましたが、聖書自体は特別ではなく他のことと同列に扱っています。3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」10節「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」「心の貧しい者」は天国に入れる人であり、「義のために迫害されている者」も天国に入れる人です。けれども義のために迫害される人は天国で特別の位に着くなどと書いてはありません。同じです。つまり「心の貧しい者」は「義のために迫害される者」でもあります。「心の貧しい者」とは、キリストを信じて神に拠り頼まなければ、どうにもならない自分の罪の悲惨さを知る者です。その人は自分の罪の悲惨さを知るとともに、そんな自分に神がキリスト信仰のゆえに義をくださったことを知って感謝しています。

一方「義のために迫害される者」とは、キリストを信じて神から義をいただいて感謝し、その義のために迫害さえも受けて立つ覚悟がある者です。両者には、当たり前のことですが共通してキリスト信仰があります。けれども、信仰のどの部分を表すかには違いがあります。「心の貧しい者」はその信仰の内面を表し、「義のために迫害される者」はその信仰の外面を表します。ようするにこれらは同じ人の別の面を表しているのです。

次に「義のために迫害される者」は幸いだとありますが、何が幸いなのでしょうか? それは信仰に関しては私達の側にいつでも義があることです。キリスト信仰以外のことでは、私達にいつでも義があるとは言えません。人間は間違いやすいものですから、私達の言うこと、することには時々間違いがあります。それなのに自分の考えたことや判断したことはいつも正しく適切だと言い張るならば、そういう人が頑固者です。だから、そういうことに関して私達は謙遜になる必要があります。けれども、神から与えられたキリスト信仰にはいつでも義があります。もしその信仰を迫害する人達がいるなら、その人達は不義であり、義は私達にあります。だから私達は堂々としていればいいのです。

また私達に義があるとは、私達は真理に従うことであり、私達を迫害する者は真理に逆らっていることです。不義であり真理に逆らう迫害者はいずれ神のさばきを受けてしまいます。だから私達はむしろ迫害する人達を哀れんで祈る必要があります。マタイ5章には「――自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というみことばがあります。もし私達に義もなく真理に従わなかったら、こんなことはとても言えません。義があり真理に従う私達には祝福があると確信するから迫害する者のために祈れるのです。さらに、その幸いとは天国で大きな報いを受けることです。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天において、あなたがたの報いは大きいのですから」これは今、迫害を受けている人達にはピッタリのことばです。

迫害を受けても受けなくても、キリストを信じる者は天国に行くことが出来ます。たとえ、この世で主のために大したことが出来なかった人でも証にならない歩みをした人でも、キリスト信仰さえあれば、天国に行くことが出来ます。迫害を受けても受けなくても、天国の報いを受けることは同じです。けれども、迫害を受ける人達にとって天国で受ける報いはより切実なものになります。想像力を働かせたら、多くの殉教者たちが「天において、あなたがたの報いは大きい」に希望を見いだし、死を受け入れて行ったことがわかるはずです。

また平和な時代に生きる私達に目に見える迫害はなくても“試み”と言う迫害があります。いわゆる迫害は、“信仰を捨てろ、さもなければ殺すぞ”と脅迫して直接、私達のキリスト信仰を覆そうとして働きます。けれども、試みという迫害は、信仰のことは直接、問題にしません。主の御名のゆえに悪口を言うことはありません。けれども、私達を知らないうちに信仰から離れさせるように働きます。私達は何かを捨てる必要はありません。むしろ、試みる者は私達にいろんなものをどんどん与えてくれます。けれども、いろんなものをどんどん与えられることに身を任せていて気がついてみたら、信仰から遠ざかっていたということが起こります。“信仰生活を生真面目にしていると楽しむものも楽しめない”と思わせたり、あるいは“信仰よりもこの世のいろんなものの方が価値ある”ように思わせて、私達を信仰から引き離すのです。だから、私達は与えられることに身を任せるのではなく、与えられることが信仰生活の妨げになるかどうか、よく見極めなくてはなりません。そのためには、しっかりとした指針が必要ですが、その指針が私達のキリスト信仰に義があり、その義を守るために戦うことは幸いなことであり、その義は非常に大きな天国の報いをもたらすということです。

昔の殉教者達は命を捨てることによってキリスト信仰によって与えられる義の素晴らしい価値を、私達に教えています。そのことを心に留めてキリスト信仰による義を守るための戦いを続けていきましょう。