ヨシュア5章
“エジプトを後にして約束の地を目指せ” 内田耕治師
エジプトを出て40年も荒野をさ迷う歩みをしたイスラエル人はヨシュアを指導者にし、水を涸らす主の偉大なみわざによってヨルダン川を渡った後、エリコの東の境にあるギルガルで割礼を受けました。イスラエル人は生まれて8日目に割礼を受けることになっていました。割礼はアブラハムから始まり、エジプトに移住してからもイスラエル人がずっと守ってきた伝統でした。けれども荒野で生まれた若い人々は割礼を受けておらず、エジプトを出た世代の人々はすべて荒野で死んでしまったので約束の地に入る頃、割礼を受けた人達がいないという状態でした。それでヨシュアは途絶えかかったその伝統を復活するためにギルガルにおいてイスラエル人全体で割礼を施したのです。
でも、その割礼には伝統の復活以上に大切な意味がありました。それはエジプトの恥辱を取り除くためでした。エジプトの恥辱とは何か?
かつて約束の地を偵察した斥候の大半が大きく強そうな先住民を見て恐れると、イスラエル人全体も臆病風を吹かせて不信仰になった奴隷根性です。荒野のマナに不満たらたらで“エジプトでたらふく食べていけたら、それでいい”と言いだした享楽的な姿勢です。エジプトの偶像に知らず知らずのうちに影響され、モーセがシナイ山に登っていたときアロンに金の子牛を造らせた偶像を求める心です。イスラエル人はエジプトを出て奴隷から解放されたのに、エジプトの恥辱を引きずっていたので主やモーセに逆らい通しで40年も荒野で煮え切らない歩みをして結局、彼らはみんな荒野で死んでしまいました。彼らは自分の子供達に良くない模範を残してしまったのです。だからギルガルでの割礼は、そのようなエジプトの恥辱を捨てて主とともに新しい歩みをする誓いを表わしていました。その誓いは私達がイエス様を信じて受けたバプテスマと似ています。
バプテスマを受けたからと言って罪の性質がなくなるわけではありませんが、罪から決別して主とともに新しい歩みをする誓いを立てるために私達はバプテスマを受けます。ギルガルで割礼を受けた人達も同じです。厳しい荒野で生まれ育ったとしても神の前に罪ある者だから、エジプト的なものを引きずっています。でも、親達のような歩みを繰り返さないために約束の地に入る前にエジプト的な物から決別して主とともに新しい歩みをする誓いを立てたのです。
次にその誓いを立てて主に従う歩みを始めたことは、約束の地を「聖なる場所」だというところに表れています。ヨシュアの前に抜き身の剣を持ったお方が現れました。そのお方は「主の軍の将」でした。さらにそのお方はヨシュアに「あなたの足の履き物を脱げ、あなたの立っている所は聖なる場所である」と言いました。それは約束の地は聖なる場所だから土足で汚してはならないということです。土足とはエジプトの恥辱を表します。すなわちイスラエル人は親達が引きずっていた不信仰や享楽的な姿勢や偶像を求める心から決別して、それらを決して約束の地に持ち込まないという誓いを立てたのです。
次にヨシュアの前に主の軍の将とは何なのか?ヨシュアを初めとするイスラエル人はこれから約束の地を獲得する戦いを始めようとしていました。彼らには実際の戦いだけでなく、罪との戦いがありました。主の軍の将は、罪に誘惑されやすいイスラエル人が罪と戦えるようにするために現れました。ヨシュアはそのお方に「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか」と言いました。そのお方は、イスラエル人が罪と戦うとき力強い味方です。けれども、イスラエル人が罪との戦いを放棄し、エジプトの恥辱を約束の地に持ち込むなら、そのお方は敵となります。
ところで今の私達にも主の軍の将のようなお方がいます。そのお方こそ、私達の主イエスキリストです。イスラエル人にとって約束の地とはカナンの地だけでしたが、私達にとって約束の地とはどこでも今住んでいる所です。どんな所でも約束の地であり、そこは私達にとって聖なる場所です。本当なら神の前に罪があり、エジプトの恥辱を持ち込むような私達ですが、イエスキリストはそんな私達のために十字架にかかって下さり、罪の赦しを与えて聖なる者として下さいました。だから私達は今、聖なる場所に立っています。私達はイスラエル人と同じように土足で踏み込んで聖なる場所を汚すことがないようにと戒めを受けています。
主の軍の将は抜き身の剣を持っていました。あの剣は何か? イスラエル人が罪と戦うとき、あの剣はイスラエル人の力強い味方となります。けれども、イスラエル人が罪と妥協して歩み出すならば、あの剣は罪を指摘し正しい道に立ち返らせる怖い教師となります。そのことは今の私達も同じです。つまり、あの剣とは神のみことばを表しているのです。だから、抜き身の剣を持つ主の軍の将を前にしたヨシュアは、イエス様を信じて聖書という神のことばが与えられている私達を表します。では、そんな私達はどうあるべきか?それは主の軍の将を前にしたヨシュアの態度に倣えばいいのです。14節の後半に「ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。“わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。”」と書いてあります。ここから2つのことを学ぶことが出来ます。
1つは、ヨシュアが顔を地に付けて伏し拝んだように、主を偉大なお方として拝むことです。礼拝のときだけでなく普段の生活の中で主を偉大なお方として拝んでいるかどうか吟味したいと思います。
もう1つは、ヨシュアが「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか」と言ったように主から聞く耳を持つことです。主から聞く耳があるとは慰めにしろ、励ましにしろ、悩み考えるにしろ、沈黙にしろ、とにかく、みことばから聞いて行く姿勢が出来ていることです。
みことばを聞いて行く姿勢は次の状態に私達を導きます。コロサイ3:16に「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。」これが、みことばを聞くことによって導かれる状態です。キリストのことばが自分のうちに豊かに住むようになる。それが私達の目指す状態です。そうなれば、私達が住み活動する場所に、汚れを持ち込むことを防ぐことができ、聖なる場所として保つことが出来ます。それこそが私達の平和であり、祝福です。