マタイ5:13-16

「地の塩、世の光」  内田耕治師

 

イエスキリストを信じて救われても“自分は人格的に人間が出来ていない”と思って地の塩・世の光を将来目指すべき目標と考えて逃げ腰になる人が案外多い。しかし「あなたがたは地の塩です。あなたがたは世の光です。」は将来の努力目標ではなくて、すでに“地の塩・世の光”になっているという現在の立場を表しています。

もし逃げるとしたら、例えて言うと、医者なのに患者の前で“私はまだ医者ではありません”教師なのに生徒の前で“私はまだ教師ではありません”と言うようなものです。それは変なことですが、地の塩・世の光を将来の目標とするとはそれと同じようなことです。たとえ私達は弱さを抱え、足りないものがたくさんある者だとしても神がキリストを通して私達を地の塩・世の光として選んで下さったことに変わりはありません。

医者になったら医者らしくなり、教師になったら教師らしくなるように立場は人を作るものです。だからキリストを信じて地の塩・世の光という立場になれば、それらしくなるものです。ただし、それらしくとは、ある一定のレベルの徳がなければならないという規定は何もありません。立場とはその立場が持つ役割を果たすためにあります。たとえば、医者は患者を治療する役割を果たすために、教師は生徒に教科を教える役割のために存在します。地の塩・世の光もある役割を果たすために存在します。

地の塩の役割とは何か?地とは単なる地面とか大地ということではなく、人間が住む地上つまり社会のことです。塩とは私達の信仰です。私達の信仰を地の塩と言うことで、信仰の役割を表しています。塩は物が腐るのを防ぐ防腐剤の役割を果たします。この社会は放っておけば腐敗して変な方向に行き、滅びてしまうものです。どうしてか?それは基本的に真の神に背を向けた罪がある人間が社会を営んでいるからです。多くの人達はこの社会を良くするよりも少しでも多くお金を儲けるために、いろんなことを熱心にしています。また今は熱心にやらなければ食べていけない世の中です。もちろん、ほとんどの人達は真の神に背を向けて、背を向けていることさえ知らないであくせく働いて金儲けに邁進しています。そんな社会はじわじわと腐敗していきます。でも、少数のキリスト者の存在がそんな社会の腐敗による破滅を食い止めています。

創世記18章はそれを表しています。ソドムの町は腐敗の極致にあっていつ神のさばきに遭って滅ぼされも仕方がない状況でしたが、アブラハムが神に問いかけたとき神は最終的にたった10人の正しい人がいれば、ソドムを滅ぼさないと約束しました。その10人は今日の箇所で言うと、地の塩です。私達は社会の中でごく少数の存在です。私達は、自分は社会に対して何の力もないと思っているかもしれません。けれども神は私達を地の塩として置いています。少数の私達がいるからこそ滅亡の一歩手前で腐敗を食い止めているのです。

では、小さな私達がどうして地の塩なのか?それは、私達には創造主であり義なる神を崇める信仰があるからです。この社会の大勢は人間を崇め、権力を崇め、お金を崇め、欲望を崇めています。そして人間や権力やお金や欲望を崇めるところから、じわじわと腐敗が蔓延ります。けれども、その社会に住む私達は罪や悪をさばく義なる神を崇めています。私達自身は力がなく小さく弱い存在ですが、私達が信じる義なる神は偉大なお方です。その神を信じる小さな私達をこの社会の腐敗を食い止めるために地の塩として用いているのです。けれども、私達が義なる神を信じることを止めてしまえば、地の塩の役割を果たすことが出来ません。

「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。」

地の塩として働くキリスト信仰をさらに広げるために、神は私達を世の光としてこの社会に置いています。世とはこの世に住む人々のことです。光はよくイエスキリストを表すために用いられる言葉ですが、ここでは光とはイエスキリストを伝える私達を表します。つまり、キリストを伝えることが出来る私達は人々の間では闇の中にあって人々を照らす光なのです。闇とは義なる神がわからないということです。そして義なる神がわからないから人々は、人間や権力やお金や欲望を神として崇めてこの社会はじわじわと腐敗してゆきます。それで神は、私達をキリストを通して義なる神を伝える世の光としてこの社会に置いています。世の光である私達の使命はキリストを一人でも多くの人達に伝えて、地の塩・世の光となる人を増やすことです。神はアブラハムに10人の正しい者がいれば滅ぼさないと言いましたが、10人もいなかったので結局、神はソドムを滅ぼしました。ここから滅びから守られるためには人数も関係することがわかります。何千、何万とは言いませんが、1人1人の貴重な魂が集まり10人以上いることは非常尊いことなのです。

貴重な1人1人を増やすためには、まず人がいつでもキリストのことを聞けるように私達がキリストを隠すことなく、いつも公開することが必要です。「あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。」

私達の光を人々に照らして、人々がキリストを通して義なる神に立ち返るためには、私達の良い行いも必要だと教えています。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためです。」“やっぱり人間が出来ていなければならないんだ”と言う方がいるかもしれませんが、言いましたようにその立場になれば、それらしくなります。それは自分の力ではなくて主がそうしてくださるのです。正直言って人格的にまだまだ出来ていない者ですが、そんな者を地の塩・世の光らしく徐々に変えて下さる主に期待して歩んでいきましょう。