ヨハネ1:14-18

“恵みの上にさらに恵みを”  内田耕治師

 

ヨハネの福音書1書の前半はイエスキリストを紹介するために書かれた箇所です。今日の箇所は2人の知名度のある人物とイエス様を比べながら“偉大なあの方よりもイエスキリストはもっと偉大だ”と紹介しています。

バプテスマのヨハネは「私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです」と自分よりも偉大な方が来られることを予告して、その予告通りにイエス様が来られたのでイエス様こそが救い主だと証言しました。モーセはイエス様よりも遥か昔の人物だから、ヨハネのようにイエス様の偉大さを語ることはできませんが、その代わりに著者のヨハネがイエス様とモーセを比較して偉大なモーセよりもさらに偉大なイエス様について語りました。3つのことがあります。1つ目はどんな存在か、2つ目は何を行ったのか、3つ目は何を実現したかです。

まずモーセやイエス様はどんな存在か?モーセは大昔にエジプトで奴隷とされていたイスラエル人を約束の地に行かせるために主が立てられた器でした。彼はイスラエル人をエジプトから連れ出し、シナイ山で神から律法をいただき、40年間、荒野をさ迷うイスラエル人を教え導きました。モーセはイスラエル人が決して忘れることができない偉大な人物です。けれどもイエス様はそんなモーセよりも偉大です。どうしてか?イエス様は神だからです。14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」1節を見ると「ことば」とは神だからイエス様は“人となられた神”です。18節「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」モーセは人間だけれども、イエス様は父のふところにおられるひとり子の神です。だから当然イエス様はモーセよりも遥かに偉大なお方です。

次にモーセやイエス様は何をしたのか。14節「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」栄光という言葉が2回も出て来るようにイエス様の栄光を強調しています。その栄光とはイエス様が私達の罪の身代わりとなるためにご自身のいのちを捨てられたことです。ヨハネはイエス様の十字架を見て「私たちはこの方の栄光を見た」と語ったのです。モーセも自分のいのちを捨てる意志を示したことがありました。彼がシナイ山で神から十戒をいただいていたとき、麓のイスラエル人は金の子牛を造って偶像礼拝にふけっていました。下山してそれを見たモーセは激怒して子牛の偶像を破壊し、そのような大きな罪を犯したイスラエル人をもう神は赦さないだろうと嘆き、何とか民の罪を赦していただくために神の書物から自分の名前を消すことを願いました。参照、出エジプト32章。そこまで言えたモーセは偉大な指導者ですが、主は彼に「わたしの前に罪ある者はだれであれ、わたしの書物から消し去る。しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に民を導け。」と言いました。モーセが民の罪の赦しのためにいのちを捨てる必要はないのです。なぜなら、それはイエス様だけができる仕事であり、表すことができる栄光だからです。だからイエス様のモーセよりも偉大なのです。「私達はみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」恵みはモーセの時代からあったのですが、それは山の源流のようにチョロチョロ流れる小さな流れのようでした。けれども、イエス様が来られて急に大きな流れになりました。

モーセの時代からあった恵みとは何か?モーセによって与えられた律法です。律法があるということは幸いなことです。では、どうしてイエス様によって恵みが飛躍的に大きくなったのか? それは恵みとまことがイエスキリストによって実現したからなのです。飛躍的に大きくなった恵みには「恵み」と「まこと」という2つの要素があります。

「恵み」とは何か?モーセの律法は私達の罪を示すものであり罪は私達を死に導くものだから本当は律法だけでは恵みではありません。けれども、イエス様の十字架によって罪が赦されて救われる道が定められました。それが恵みです。ヨハネ12章「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら豊かな実を結びます。」イエス様の十字架の贖いによって私達に恵みが満ち溢れるようになるのです。

またヨハネ伝は「恵み」だけでなく「まこと」が実現したとも言っています。「まこと」とは何か?「まこと」とは私達に対する神の真実を表します。すなわち、神は御子の十字架で私達を救うという恵みをとこしえまで裏切ることなく守ってくださるその真実を表します。詩篇に「主はまことに慈しみ深い。その恵みはとこしえまで」というみことばがよく出て来ます。主は恵み深いお方だ、しかも、その恵みは永遠だということです。初めのうちは良くしてくれたけれども時間が経つと、関係が薄れ素っ気無くなり、忘れるような付き合い方を人間どうしはしています。けれども、主はたとえ私達が主を忘れても、主は私達を忘れず恵み深くあられるお方です。これがイエス様の実現した「まこと」なのです。主がその「まこと」を実現して下さったから、主は私達が生きている間、私達を覚えて下さるだけでなく、私達が死んでからも私達を覚えていて永遠のいのちを与えて下さるのです。モーセは律法を与えてくれましたが、イエスキリストは恵みとまことを実現するというもっと凄いことをしてくれました。だからイエス様はモーセよりも遥かに偉大なのです。イエス様が実現した恵みとまことを心に留め、感謝し、主をほめたたえながら今年も歩んでいきましょう。