マタイ6:1-4

“計算ずくからの解放”  内田耕治師

 

この世で私達はほとんどの生活を計算ずくでしています。商売や事業をする立場になると、さらに計算ずくで物事を考えるようになります。見返りがすぐに得られるなら喜んで事業を始めますが、見返りが得られない事業はやりません。また私達の人間関係も計算ずくになることがあります。金持ちや権力者や地位のある人と親しくなろうとするのは、そういう人達と繋がりがあれば、見返りがあるとか、何かの時に助けてもらえるなどと考えるからです。けれども、心の底では計算ずくだけでは良くないことも気づいています。だから、あまりにも損得勘定丸出しの話を聞くと、嫌な気持ちになります。損得勘定の世界に生きていながら、それに心底、満足しているのではなく、別の生き方も求めているのです。

ところで、そんな私達にイエス様は計算ずくから解放される生き方を教えてくださいました。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父からの報いを受けられません。」イエス様の時代には、そのように教えなければならない背景がありました。「施し」とありますが、当時のユダヤ教には貧しい人達を助けるための制度がありました。それは初代教会に受け継がれて使徒6章のエルサレム教会では寡婦達を助けるための毎日食糧の配給をしていました。その制度はお金持ちやその他の人達の施しによって成り立っていました。だから善い行いとして施しが盛んに奨励されていました。さて施しをすることは良いことですが、人間というものは自分が社会に貢献したことを人に認めてもらいたくなるものです。

「偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでする」これは施しのことではなく、当時、パリサイ人が人に認めてもらうために会堂や通りで長いお祈りをして自分が宗教に熱心な者だとを示そうとしたことですが、イエス様は彼らを“偽善者だ”と批判し、彼らと同じように人から誉めてもらうために「自分の前でラッパを吹いてはいけません」とイエス様は教えました。ラッパを吹くとは、みんなが誉めてくれるようにみんなに自分の施しを吹聴することです。それは誉めてもらうために施しをしたようなものです。それがエスカレートすると“報いがあれば、やる”というふうに計算ずくになってしまいます。

だから「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」と教えています。それは人に誉められるためにみんなに知らせるようなことはするなということです。もちろん自然に知られるのは構いませんが、誉められることを求めてわざわざ知らせる必要はないということです。「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」イエス様は報いそのものを求める心を否定するのではなく、むしろ肯定しています。でも、それを隠れたところで見ておられる父なる神に求めなさいと教えています。つまり人からの報いではなく神からの報いを期待して善い行いをしなさいということです。神のみ旨にかなうことをしたとしても、人から無視され、組織には馴染まず、だれも賛成してくれないことがあります。バカにされ、迫害されることがあります。けれども、人からの報いではなく神からの報いを期待してやれば続けることができます。まず私達の信仰生活がそういうものです。日本は伝統的なキリスト教国ではないですから、イエス様を信じてクリスチャンになったとしても、教会は喜んでも、世の中では何も評価されません。無視されるとか偏見の目で見られるだけです。けれども来るべき世では天国という凄い報いを受けることができます。まさに隠れたところで見ている神からの報いを期待して歩んでいます。それは計算ずくから解放された生き方です。

信仰以外でもそのような生き方をする人達がいます。杉原千畝は6000人・命のビザで有名な第二次大戦の初期、リトアニアのカウナスにあった日本の領事館にいた外交官です。彼はナチス・ドイツに追われていた大勢のユダヤ人がシベリヤ経由で日本に行き、日本を通って第三国に逃げるために、日本を通過するビザを外務省の命令に反して大量に発給して6000人のユダヤ人の命を救った人物です。彼は戦後、外務省をクビになり、その後は忘れられた存在になっていましたが、だいぶ経ってから、ある日ユダヤ人が訪ねてきて“あなたのおかげでたくさんの命が救われました”と感謝され、その後イスラエル政府から感謝の勲章が与えられ、またずいぶん後ですが、彼が召された後で日本政府はやっと彼の名誉を回復しました。ビザを出す決意をする頃の杉原千畝と夫人の言葉のやり取りが残っています。領事館の前にユダヤの難民がたくさん押し寄せてきてその中には疲れ切った幼い子供もいました。彼らを見て

哀歌2:19「――あなたの幼子たちのいのちのために、主に向かって両手を上げよ。彼らは街頭のいたる所で、飢えのために衰え切っている」

が思い浮かびました。彼が夫人に“領事の権限で出すことにする、いいだろう”と問いかけると“後で私達はどうなるかわかりませんけど、そうして下さい”と同意して、杉原は苦悩の末“人道上、どうしても拒否できない”という理由でビザ発給を決断しました。外交官が政府の命令に反したことをしたら将来はないことはわかりきったことでした。計算すくで考えたら、それは絶対にしないことです。でも杉原氏はそれをしました。彼は後で“自分はたいしたことをしたのではないですよ、当然のことをしただけですよ”と言っていたそうですが、それはまさに人からの報いではなく、隠れたところで見ておられる神に従ったから出来たことです。

ところで、杉原千畝のビザ発給は非常に多くの命がかかっていた重大な例ですが、私達も状況は違いますが、非常に小さな規模で彼と同じような立場に立たされることがあるのではないでしょうか?初めに言いましたようにこの世で生きている以上、生きていくためには計算ずくで考えて損をしないようにする必要があります。見返りを求めていろんなことを判断する必要もあります。けれども、それとともに、たとえ見返りがなくても損になっても計算ずくを放棄して、ただ神のみ旨に従うべきときがあります。ついつい計算ずくで考えて神のみ旨に従いきれない弱さがあり自分のことを情けなく思うことがある私達ですが、そんな私達に「そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」というみことばは与えられているのです。