マタイ7:7-11

内田耕治師

 

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」

一般的には“求めよ、さらば与えられん”で知られるこのみことばは私達に希望と勇気を与え、弱気な私達の背中をそっと押して私達がみこころのものを求めたり、探したり、たたいたり出来るようにしてくれます。大昔の信仰の先輩であるノアもアブラハムもギデオンも「求めなさい。そうすれば」のみことば通りの歩みをしてみこころのものを手に入れることができました。私達も彼らに倣い、このみことばに従ってみこころのものを手に入れようとしています。

「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。―――それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」

このみことばに従って手に入れるみこころのものとは良いものです。ノアに与えられた家族の救い、アブラハムに与えられた神の祝福、ギデオンに与えられた羊の毛のしるしはすべて良いものでした。私達も求めたら良いものが与えられますが、私達にとって良いものとは何でしょうか?それは神への感謝や賛美につながるものです。目当てのものが与えられて“良かった”と言っても、必ずしも良いものではない場合もあります。たとえば“熱心に富や地位や権力を求めて思い通りに手に入れて喜んだけれども、すぐ後から堕落が始まり、それらがかえって災いをもたらすとか、神のみ栄のためよりもむしろ自分の高ぶりや虚栄のために能力や賜物を用いてかえって神のみわざを損ねるとか、健康に自信を持ちすぎて無茶をしてかえってそれを損ねるなど、それらはすべて良いものではありません。

反対に、たとえ能力や賜物や健康に多少の問題があっても神への感謝と賛美につながるなら、神が与えた良いものです。第二コリント12章でパウロは自分の肉体に何らかの病があり、その病が取り去られるように3度祈って癒されなかったですが、癒されなかった病をむしろ自分が高慢にならないために主が与えたトゲであると言い、主の恵みは十分だから、むしろ自分の弱さを誇ると言いました。彼は祈り求めても癒されなかったですが、主から良いものを得ることができました。

私達も能力、賜物、健康、地位、お金などで祈り求めたけれども大いに不足を感じることがあり、人と比べて足りないものが多い自分を嘆き、呟くことがあります。そんなとき足りないことを嘆き続け、呟き続けるだけでは何も得るものはありません。けれども、不足は高ぶりを防ぎ、ハングリー精神を養いますから、不足感を覚えながら、その不足を何とか乗り越えるべき目標と考えて、やる気を出すなら、不足があること自体が私達にとって恵みとなり、神に感謝できます。そうなれば、能力、賜物、健康、地位、お金などに不足を感じること自体が、主が与えた良いものとなります。

主はどんなものでも私達にとって良いものとしてくださるのです。求める私達に必ず良いものを与えてくださる主に感謝と賛美をささげていきましょう。