マタイ7:12

”人の望むことを人にしなさい’’  内田耕治師

 

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じようにしなさい。これが律法と預言者です。」
これは「隣人を自分と同じように愛する」には具体的にどのようにすればよいか教えたものです。ます隣人を愛するとは“人に迷惑なことをしてはならない”という消極的な戒めとは対照的に「人にしなさい」と積極的に何かすることで人と関わる営みです。愛とは労苦を伴うものです。労苦を厭わずに人と関わるならば、隣人を愛することができるのです。また隣人を愛するならば、神を愛することになります。目に見える人を愛することは目に見えない神を愛することだからです。

隣人を自分と同じように愛することは、具体的に言うと「人からしてほしいことを、自分も同じように人にすること」です。ルカ10章のたとえ話でサマリヤ人は倒れていた人を可哀想に思いました。可哀想に思うとは“もし自分が同じ目に遭ったら助けを叫び求めるはずだ”と自分の身になって考えることです。彼はそう考えたから自分の内なる叫びに従い、倒れていた人を助けました。

一方、祭司やレビ人も倒れていた人を見て可哀想に思ったはずです。けれども、彼らは可哀想にという思いを押し殺して自分の内なる叫びに従いませんでした。どうしてか? 神殿のお勤めがあったからです。当時、死人に触れると自分を汚すことになり、そうなると彼らはしばらく神の奉仕ができなくなるという律法(民数記19章)がありました。だから彼らはそこのとを心配して可哀想にという思いを押し殺して通り過ぎました。彼らは自分の内なる叫びよりも神の掟に従ったのです。

彼らは今の私達のあり方を表します。祭司やレビ人は神の掟に縛られていましたが、今の私達は課せられた仕事に縛られ、追い立てられて、いつものスケジュールを粉しています。けれども、隣人を自分と同じように愛する機会はあのたとえ話と同じようにほとんどそういうスケジュールとは関係なしにやってきます。

だから隣人を自分と同じように愛する機会が訪れたとき、あのサマリヤ人のように可哀想に思って自分のスケジュールを変えてでも自分の内なる叫びに従うかーそれとも祭司やレビ人のようにスケジュールに縛られて可哀想という思いを押し殺すか、私達は問われています。つまり「人からしてもらいたいことを人にする」とは、苦しむ人達を自分の身になって思いやることが前提にあります。思いやる心がなければ、この教えは成り立ちません。

1ヨハネ3:17-18「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたちよ。私たちは、ことばと口先だけでなく、行いと真実をもって愛しましょう。」
だれもがこのみことばを見る時、経済的なことだけでなく広い意味で自分に苦しむ人を思いやる心があるかどうか、チャレンジを受けますが、神はいつも私たちが悲惨な目に遭っている人達を思いやり、自分の身になって考えるように勧めているのです。