マタイ7:6―11、イザヤ6章

“真珠を豚にやるなとは何か”  内田耕治師

 

マタイ7:6「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。」

「聖なるもの」や「真珠」とは私達の魂にとって非常に価値があるみことばや福音です。「犬」や「豚」はみことばや福音の価値がまったく分からず聞く耳を持たない人達です。「聖なるものを犬にやるな!真珠を豚にやるな」とは一見みことばや福音の価値が分かる人達だけを相手にせよということに思えますが、そうではありません。むしろ、これは、みことばを伝える私達が遭遇する現実です。

イザヤ6:9-10「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るなと。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒されることもないように」

理解に苦しみますが、これはみことばを伝える者が遭遇する現実です。預言者エレミヤはみことばを命がけで伝えたのに、人々は犬や豚のような反応をして聞いたみことばを踏みつけ、語ったエレミヤに反発しました。私達の主イエスキリストは最終的に人々に拒絶され十字架にかけられました。

マタイ7:6「犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります」

イエス様は、だれでも人はみことばの価値が分からない犬や豚の性質のゆえに聞いたみことばを心で踏みつけ、語った人に反発することがわかっていました。みことばには限界があるのです。「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな」が示す現実はいつでも同じなのです。けれども、イザヤ6章はみことばの限界とすべてが荒れ果てていく厳しい現実を語りながら、その先に「しかし、切り倒されたテレビンと樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔」と希望を語っています。木は、切り株が残っていれば、そこからまた大きく伸びる凄い繁殖力があります。同じように厳しい現実は変わりなくても、みことばを伝え続けたら、切り株が残り、やがてそれが大きく成長する希望があるのです。それは少数の主に忠実な人達が起こされ、やがてその人達が大きく成長し、神の栄光を表すようになることです。

マタイ7章もイザヤ6章と同じようにみことばの限界と厳しい現実だけでなく「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」と希望を教えています。確かに、みことばには限界があり、厳しい現実がありますが、そんな中でも神は希望を与えているのです。私達はその希望を目当てにして歩むことが出来ます。だから私達はイザヤやエレミヤと同じように、厳しい現実の中でみことばを聞き続け、語り続ける道を選んでいるのです。