イザヤ9:1-7、ルカ21:25-36
「死の陰の地に住む者たちの上に輝く光」 内田耕治師
旧約の預言者イザヤは将来起こる神の救いのみわざを大まかに1つの連続した出来事と見ていた。その出来事とは諸外国に侵略され苦しめられているイスラエル人が、やがて力を盛り返して敵を打ち破り、ひとりの王となる男の子が生まれて平和が確立して偉大なイスラエル王国が出来ることだ。けれどもイエス様がすでに来られた新約時代にいる私達はイザヤの預言を違った視点で見る。その視点とはすでに成就した過去の出来事に立ってまだ成就していない未来を見ていくことだ。
過去の出来事とは神の御子イエスキリストが、この世に生まれ、人類の罪の身代わりとして十字架にかけられ死と復活によって罪からの救いの道を開いたことだ。だから「苦しみ」とか「闇の中」とか「死の陰」とは人間が神から離れて罪の支配下にあることであり、「大きな光を見る」とか「光が輝く」とは、その罪から解放する救い主が現れることだ。「異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける」とは辺境の地ガリラヤからイエス様が宣教を始めることであり、「ひとりのみどりごが私達のために生まれる。ひとりの男の子がーーー」とはイエス様が処女マリヤから生まれたことと、書いてはないが十字架の死や復活を含んでいる。
次にこれらの過去の出来事に立って、私達はまだ成就していない未来の神のみわざを見ている。
「主権はその肩にあり、その名は“不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君”と呼ばれる。」これは再臨するイエス様だ。イエス様は2000年前、貧しい大工の息子として生まれ、社会的な地位も権力もなく、主権と言えるようなものは何1つなかった。けれども、再臨するとき、生きている者も死んだ者もさばく権威つまり主権を持つ者としてやって来る。「再臨」という言葉はないが、「主権」という言葉の背後に再臨があると考えるのが自然だ。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」これらも再臨の主にふさわしい言い方だ。
それから私達は再臨の主の背後にある永遠の天国も見ている。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」これは永遠の天国を表す。私達は2000年前のイエス様によってなされた神のみわざに立って、これから起こる再臨の主とその背後にある永遠の天国を見ているのである。
ところで、私達はこの世ばかり見て再臨の主やその背後にある永遠の天国をしっかりと見ていないことがある。いや、この世ばかりを見るというよりも、この世に振り回されて自分の立つべき所を見失いかけるのである。イエス様はその危険性をよくご存知で警告のみことばを残した。「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことがないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことが出来るように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」その通りだが、そのために私達はすでに成就した神のみわざに立って、これから成就する神のみわざを見ていくのです。