マタイ11:2-6、イザヤ35章
「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」 内田耕治師
キリストは非常に長い期間、多くの人々が待ち望んだ末に来られた方だ。初めの人間が罪を犯した直後に神は救い主が来るという約束を人類に与え、その時以来、人類は救い主を待ち望んだからだ。イスラエル人が特に救い主をメシヤと呼んで待ち望んだ。イエス様より700年位昔の預言者イザヤにメシヤを待ち望む信仰が強く現れた。メシヤを待ち望む信仰の頂点にバプテスマのヨハネがいる。彼は、神からメシヤが来るための道備えをする使命が与えられた。それが彼の人生の目標だったからイエス様にバプテスマを授けたとき、大いに喜んだに違いない。けれども、その後ヨハネは自分が思い描いたメシヤ像とイエス様があまりにも違うので「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも別の方を待つべきでしょうか」とイエス様を疑い、つまずいた。
そんなヨハネに対してイエス様はご自身の活動によって「目の見えない者達が見、足の不自由な者達が歩き、―-」と不思議なみわざが起きていることを語った。そのみわざはイザヤ35章の預言の成就であり「荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れ、花が咲いて喜ぶ」というメシヤ預言が成就する印だ。だから“今そんなことがわたしを通して起こっているのは、わたしがメシヤだからだ”とイエス様は言いたかったのである。けれども、それとともにイエス様は「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」と語った。イエス様はだれでも招いているのにヨハネのようにイエス様につまずく人達や教会にいる私達につまずく人達が現れる。ほんの小さなことでつまずいて教会に行くのが嫌になり牧師の話を聞くのが嫌になる。私達にはつまずきやすい弱さがある。だから、つまずくことなく何とか持ちこたえて信仰を続けられるとしたら、それは幸いなことである。
その幸いとは、神の導きと守りがあることだ。順風満帆に信仰生活が出来ていても、それは自分に力があったとか、自分が人間的に出来ていたからではない。神が、その人がつまずくことがないように歩むべき道や取り巻く環境や関わる人間関係をすべて上手く備えて下さったからだ。だから、私達は自分を誇ることはできない、むしろ神に感謝する必要がある。
それから神の導きと守りを祈ることが必要だ。今は何とか上手くやっているが、この先どうなるか分からない。難しいことが起こるかもしれない。あるいは順調でも気の緩みが生じてちょっとしたことで突然つまずくかもしれない。この世の旅路を終えて天に召されるまで何が起こるか分からない。だから、まず自分のために祈る必要がある。他の人達も同じだ。彼らはイエス様につまずくかもしれないし、私達やこの世のことにつまずくかもしれない。小さなことでつまずいて福音に心を閉ざしてしまうほど残念なことはないが、そんな人が多い。だから祈る必要がある。また、たとえつまずいても、また心を開くことが出来るように祈る必要がある。そのために祈ることは先に福音を信じて神の恵みを受けた私達の責務だ。自分だけでなく他の人達がつまずきから守られて天国への旅路を右にも左にも逸れることなく歩めるように祈って行こう。