ルカ1:26-45

“聖霊によって神の御子は人となられた”  内田耕治師

 

御使いガブリエルが現れ、マリヤに男の子を産むことを告げて彼女は身ごもりイエス様を生んだ。そのことによってマリヤは神の救いの御計画に大いに貢献した。だから多くの人々はマリヤに注目する。けれども聖書は、マリヤよりもむしろ神の救いの御計画のためにマリヤを用いた神のみわざに目を向けることを教えている。そのために、まず私達の救いになくてはならないイエスキリストから考える必要がある。人間は罪のゆえに神との間に非常に大きな隔たりがあり、どれだけ良い行いをしても神のもとにたどり着くことはできない。どんな偉い人でもどんなに聖い人でも人間である以上、罪のゆえに自分の力で神のもとに行くことはできない。けれども、神のほうから私達に神のもとに立ち返る架け橋をくださった。それがイエスキリストである。それはイエスキリストの十字架によって罪の赦しが与えられるからだ。

ところで罪の赦しのために絶対に必要なものがある。それは血だ。旧約時代のイスラエル人は羊や牛などの動物の血を神に献げて罪の赦しを求めた。けれども、それは本当に罪の赦しをもたらすものではなく、やがて訪れるイエス様の血によって罪の赦しがもたらされることを示すものだった。へブル9章をご覧ください。血を流すために絶対に必要なものがある。それは肉体だ。十字架にかかって血を流すには私達と同じような肉体が必要だ。もしイエス様が肉体を持たなければ、私達の救い主となることはできない。つまりイエス様はマリヤのお腹から生まれたからこそ私達の救い主となることができたのである。もしイエスキリストが肉体を持たない単なる霊として来られたと言うならば、それは異端だ。ヨハネの第二の手紙はそういう教えの人々を警戒するよう教えている。

神の御子がマリヤを通して私達と同じ人として生まれたのは聖霊の働きだ。神は、女性は男性の助けによって子を産むように定めたが、聖霊はそれを一時的に変更して処女であるマリヤからイエス様が生まれさせた。それを行った聖霊は神である。人として生まれたイエス様はすべての点で私達と同じだったが、1つだけ違いがあった。それはイエス様は私達と同じ人でありながら罪がないということだ。どうしてか?御父と御子はもともと1つであり、御父と御子の間には何の溝も壁もない。御子が天から降り、この世に来たのは御父に反逆して天から追い出されたからではなく、十字架という御父のみこころに従ったからである。だから神の御子であるイエス様に罪はない。罪のないイエス様だからこそ私達の罪の身代わりとなって罪を赦し、私達を義とすることができた。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」2コリント5:21。

マリヤが自分の意志や力や能力で罪のないイエス様を生んだのではない。罪のないイエス様をマリヤに産ませたのは聖霊の働きだ。神の御子をマリヤを通して人として生まれさせたのは神のみわざだ。そういうわけで、イエス様を生ませた神のみわざに私達は目を向けるよう。クリスマスとは、聖霊が神の御子を処女マリヤを通して人に生まれさせたみわざを覚えて神をほめたたえる時なのである。