マタイ1:18-25,28:19-20
“罪から救うイエスの誕生” 内田耕治師
ヨセフが知らないうちに婚約中のマリヤが身ごもり、ヨセフの心は大きく動揺したが、彼は彼女がさらし者にならないように内密に離縁することを考えていた。けれども御使いからマリヤのお腹の子は聖霊によるものだと夢を通して知らされて、マリヤを妻として受け入れ、生まれた子をイエスと名づけた。「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」イエス様は救い主であるが、罪とは何か? それは私達が何か悪いことをしたということではなく、人間はだれでも神との間に溝があり神から離れて神に背を向けていることだ。それが罪なのだ。どんなに偉い人でもどんなに良い人でも人間である以上、生まれながらに神の前には罪ある者である。
では、どうしてか?創世記3章で人類最初の人間が神の命令を破ったからだ。神は最初の人間アダムとエバをエデンの園に置き、園のどんな木の実を食べていいが、園の中央にある善悪の知識の木からは実を取って食べてはならないと命じたが、アダムとエバは悪魔にそそのかされて善悪の知識の木から実を取って食べて神の前に罪ある者となった。その罪のゆえに、彼らの後に続く人類はすべて神の前に罪ある者とされ、霊的に死んだ者となった。けれどもイエス様が私達の罪の身代わりとして十字架にかかり、その罪から救われる道を定めてくださった。クリスマスツリーはそのことを表わす。ツリーつまり木とはエデンの園の中央にあった善悪の知識の木を表わし、ツリーのオーナメントボールは善悪の知識の木の実を表わし、ツリーの天辺にある星はイエスキリストを表わす。すなわち、クリスマスツリーは、人類はアダムの罪のゆえに神の前に罪ある者だけれどもイエスキリストによってその罪から救われることを表わす視覚教材なのである。
別の言い方では罪からの救いとは、神との間にある溝がなくなり神との交わりを回復することだ。インマヌエルというもう1つのイエス様の名前は”神が私たちとともにおられる“という意味である。私達はアダム以来、罪のゆえに神から離れて神はともにいなかったけれども、イエスキリストを通して罪の赦しを得るならば神と和解し、神はともにいてくださるようになる。また御父と御子は1つだから神がともにおられるとはイエス様がともにおられることだ。そのことがマタイの福音書28章の大宣教命令に出てくる。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」
この世とはいろんな苦しみがある所だ。「終わりまで」私達の人生が終わる時までいろいろと問題があるし、この世が終わって天の御国が来る時までこの世に問題は続く。けれども、イエスキリストによって罪から救われるなら、そんなこの世でも神はともにおられ、イエス様はともにおられる。「いつもともに」神もイエス様も私達が起きている時も寝ている時も、仕事のときも休みのときも、調子の良い時も悪い時も、喜ぶときも悲しむときもともにいてくださる。だれでも人間はともにいてくれる存在を求めている。家族でも友人でもペットでも私達が求める存在はそのうちになくなるものばかりだ。けれども、神もイエス様も永遠であり、世の終わりまでいつもともにいてくださる。クリスマスとは、神との交わりを回復し、神と一緒に私達とともにいてくださる神の御子イエスキリストの誕生を喜び、感謝する時なのです。