へブル2:14-18

“最初のクリスマスの目的”  内田耕治師

 

神のご計画によると、最初のクリスマスは神が人となることだった。イエス様も私達と同じように血と肉を持ったこと、罪は犯さなかったがすべての点で兄弟たちと同じようになったこと、自ら試みを受けて苦しまれたことがそのことを表わす。次に神のご計画とはイエス様の死によって私達が死の恐怖から解放されることだ。死の恐怖とは詳しく言うと、死後のさばきを恐れることだ。人間は死んだら終わりなのではない。「人間には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」へブル9:27

私達は原罪だけでなく生きている間にいろんな罪を犯す。悪魔はその罪を告発して私達に死後のさばきを恐れさせて私達を束縛する。でもイエス様はその死によってそんな悪魔を滅ぼして私達を死後のさばきの恐れから解放する道を開いた。それが罪の赦しであり救いである。またそれはイエス様があわれみ深い大祭司となることによって成し遂げられた。大祭司とは神と民の間に立ってとりなす者だ。昔イスラエルで大祭司は毎年1回、動物のいけにえを献げてその血を流し、神を宥めて民の罪の赦しを祈り求めたが、その血は本当に罪の赦しを与えるものではなかった。

本当に罪の赦しを与えるものは罪のない神の御子イエス様の血だけだ。イエス様はそのままでは罪のゆえにさばかれて滅んでしまう私達を憐れんで私達の罪のためにご自身を献げ、その血を流してくださった。それによって私達は罪の赦しが与えられて死後のさばきの恐れから解放される。またそのような罪の赦しは、ただキリストを信じることによって与えられる。ただ信じるだけでキリストが流された血は私達のためのものとなるからだ。「アブラハムの子孫を助け出してくださる」を読むと、アブラハムの子孫であるイスラエル人だけを助ける印象があるが、そうではない。ローマ4章「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」神がアブラハムを選んだのは、彼が優秀なのでもなく良い行いをしたからでもない。彼に信仰があったからである。それと同じように私達キリストを信じる者は、血筋ではアブラハムの子孫ではないが、信仰によってアブラハムの子孫に選ばれた。それは神のご計画である。

そのような神のご計画は2000年前に成就したとともに今も成就しつつある。昔、キリストの十字架によってだれでも信仰によって入ることができる救いの道は定められた。けれども、救いの道は信仰によってその道を歩む者がいて救いの道となる。だから今、キリストを信じる私達はその道を歩んで神のご計画を成就しようとしている。大した歩みは出来ていないが、何とか最後まで信仰を守り通そうとしている。またキリストの救いの道はどんな民族や国の人にも開かれている。だから、今はまだその道を歩んでいないけれども、そのうちに福音を聞いて信仰を持ち、その道を歩む予備軍がいる。神のみこころはその予備軍が信仰を持って罪の赦しを受けて正規軍となり、キリストの兵士となることだ。そのためにカギとなるのは、その人の心を動かし行動を起こさせる信仰である。

民族や国にはそれなりの歴史、文化、伝統があり、それらが福音を阻む壁となることがある。けれども信仰があれば、その壁を乗り越えてキリストの兵士として戦うことができる。しかも、その信仰も主が与えてくださる。だから弱さを抱えた者でもキリストの兵士となることができる。あらゆる民族や国から神が選んだ者をキリストの兵士とすることが最初のクリスマスの目的なのだ。