第二テモテ4:1-8
“さばき主を待ち望む時代” 内田耕治師
旧約聖書にはたくさんのメシヤ預言があるように救い主を待ち望む信仰はイスラエル人のうちにずっと長い間、続いていました。2000前にイエスキリストが来られて救いの道を定めて以来、人類はまたイエス様が再び来られることを待ち望んでいます。それが再臨です。ただし主が再臨するときは、救いの時ではなく、さばきの時です。私達はイエス様による救いの希望をもってさばき主を待ち望んでいるのです。パウロはもうすぐ殉教するという時に「あとは義の栄冠が私のために用意されている」とその希望を語りました。またその希望はパウロだけでなく、再臨の主を待ち望むすべての者にあるのです。「主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださる」私達の罪はイエス様の十字架の血によって赦されて神は私達を義なる者として認めてくださるからなのです。
またこの手紙はみことばを宣べ伝えなさいと励ますとともに、みことばを伝えることは上手く行かなければすぐに諦めてしまうようなことではなく、「忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」と言って忍耐深くするように念を押しています。どうしてか?その理由が3-4節に書いてあります。ご覧ください。4:3-4「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。」と書いてありますが、これが注意する理由です。
今はさばき主を待ち望む時代であるにもかかわらず、天国の希望をもたらす真理のみことばよりも、耳に心地よい作り話を聞きたがって真理から耳を背けてしまうからです。では、真理から耳を背けさせる作り話とはどんなものでしょうか?1つの例を上げます。 聖人と言われる人達がいます。彼らを尊敬してその信仰に倣うのは良いことですが。彼らをたたえるうちに作り話が付け加えられて神がかった存在になることがあります。カトリック教会には聖人を崇敬する伝統があります。その聖人の中でも特別な存在がマリヤです。彼らはマリヤを崇敬することを教えています。プロテスタントである私達は“カトリックはマリヤ崇拝という偶像崇拝をする”と言って批判しますが、カトリックは崇敬と言ってマリヤを崇敬することと三位一体の神を崇拝するのとは明確に区別しています。それは正しく知っておく必要があります。けれども、現実的にはマリヤがほとんど崇拝の対象になっています。なぜならマリヤには、聖書にはない作り話がついているからです。たとえば、ローマ3章に「すべての人は罪を犯して神の栄光を受けることができない」とあるように聖書はイエス様以外のすべての人は生まれながらに罪があると教えています。その罪を神学用語では原罪と言います。けれどもカトリックではマリヤもイエス様と同じように罪がない無原罪の人だと教えています。そして無原罪のマリヤはキリストの贖いのわざに協力したとか、神と人の仲介者であると言っています。また聖書はイエスキリストが昇天したことを記していますが、カトリック教会では聖書のどこにも書いてないのにマリヤも死なないで昇天したことを教えています。ヨーロッパの中世では昇天したマリヤが“ここに降りて来た、あそこに降りて来た”という噂が立ち、そういう場所に巡礼者が集まって聖地となるという現象が起こりました。今でもそういう所に巡礼者が集います。こういうものは全部、聖書のみことばに基づかない作り話ですが、真理のみことばよりもそのような作り話に人々は夢中になり、夢中になることが信心深いことにされます。つまり真理から耳を背け、作り話にそれて行くのです。パウロが活躍した初代教会にはまだマリヤを崇敬することはなかったですが、彼はそういうものを生み出してしまう人間の弱さや罪深さが信仰によってよく分かっていました。またその兆しが見えていたのかもしれません。だからパウロは「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地のよい話を聞こうとーーー真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になる」と書きました。そしてマリヤのことは、パウロが書いた通りになっていることを物語っています。このみことばは預言的なみことばなのです。
では、どうして真理や健全な教えはないがしろにされてしまうのでしょうか?どうして人々は真理よりも耳の心地よい作り話を聞きたがるのでしょうか?それは作り話と違って真理や健全な教えには耳を背けたくなるようなことも含まれているからです。たとえば、聖書が示す真理や健全な教えには罪という嬉しくない教えがあります。罪の教えは時には耳を背けたくなることです。また、さばきという恐しい教えがあります。さばきの教えは時には耳を背けたくなることです。だから人々は罪やさばきの教えは真理であっても、耐えられなくなり耳に心地よい話を聞きたがります。けれども、罪やさばきが分からなければイエス様による希望も分かりません。罪やさばきが分かることによって本当の意味でイエス様による救いが分かり、希望を持てるようになります。
だから、罪やさばきを分かっていただくために忍耐深く伝えて分からせていく必要があります。好きじゃないと反発するとか、あまり真剣に考えないとかーーー十分に理解しないことがあります。だから続けて伝える必要があります。時には責めたり、戒めたり、勧めたり様々な仕方で伝えて教える必要があります。本当に忍耐深くすることが必要です。そして神はそのような忍耐深さも私達に与えてくれます。私達自身の忍耐ではとてもやり切れませんが、私達自身の忍耐でやろうとしたら、すぐに力尽きて諦めてしまいます。けれども、神がそんな私達を憐れんで必要な忍耐を与えてくださいますから、すぐに諦めやすい弱さがある私達でも忍耐深くすることが出来ます。そういうわけで忍耐の限りを尽くしてみことばを宣べ伝えていく、それがさばき主を待ち望む時代に生きる私達の使命なのです。私達は、やがてさばき主が来てすべての者をさばくことを知っています。またさばき主が来た時に、私達はイエス様によってその時が救いの時となる希望を持っています。
だとしたら、その希望をまだ知らない多くの人達に罪やさばきから救われるイエス様による希望があることを伝えるべきではないでしょうか。イエス様による救いの希望を伝えることがさばき主を待ち望む時代に生きる私達の使命です。その使命を忍耐の限りを尽くして果たしていきましょう。