マタイ6:5-8

“隠れた所にいる神に祈りなさい”  内田耕治師

 

聖書は祈ることの大切さを教えています。

1サムエル12:23「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となるなど、とてもできない」

これはイスラエルのために祈っていた預言者サムエルが言ったことですが、今の私達にも当てはまります。祈りを怠ることは罪ですが、牧師でも宣教師でも信者でもキリスト者でその罪を犯していない人は一人もいません。だから祈りの怠慢という罪を犯さないために祈りの熱心さを持つべきです。

「祈るとき偽善者のようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。」

イエス様がここで問題とするのは祈らない人々のことではなく、祈りに熱心な人々のことです。毎日5回メッカの方角に向かってどこででも祈るイスラム教徒には祈りの熱心さがありますが、今の私達は大通りの角ででも堂々と祈るほどの熱心さを持ってはいません。今の私達は祈りの大切さは教えられていながら、偽善の罪を問われるほど祈ってはいません。教会を出て人々の間ではどうでしょうか?食事の祈りを教会ではしても、未信者の家族と食事をするときには祈らないとか、職場や学校で人々と共に食事をするとき祈って食べる勇気がないとか、他人に見られるレストランでは祈らないことがあります。私達には問題が起こるほど祈りの熱心さがありません。だから祈りの生活を考え直す必要があります。

イエス様は祈りとは何か、非常に基本的なことを教えています。2つのみことばがあります。1つ目は

「祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

です。「家の奥の自分の部屋で祈る」ことをよく密室の祈りと言います。密室には自分以外にだれもいないですから、だれにも見られることなく、だれも意識することなく祈ることができます。つまり人に認めてもらうことを求めないで、ただ神に認められることを求めて祈ることができます。でも、密室に入ること自体に意味があるのではありません。たとえば“私はこれから祈りのために密室に入ります”と言って祈り、祈った後で人から褒められて満足していたら、それは人に認めてもらう祈りですから密室の祈りではありません。つまり密室の祈りとは、部屋に入るとか入らないとか、人がいるいないにかかわらず、人からの報いを求めないで、ただ神からの報いに期待して祈ることなのです。

 

また日本の場合、教会では祈っても人目を恐れて人々の前で祈れないことがありますが、それは人目を恐れて祈らないことによって“変な人ではない、普通の人だ”と人に認めもらうことです。反対に人々の前で祈って“変な人だ”と思われるのは、人から認めてもらえないことです。これはかつてキリシタンを踏み絵で調べ上げて弾圧した歴史から生まれた日本的な傾向ですが、今は祈ってキリスト者だと知られても、かつてのように逮捕され拷問され殺されることはありません。にもかかわらず、私達は今だに人目を恐れてビクビクしています。それゆえ、逆に考えると、人前で祈ってもイエス様の時代のように偽善者にはならず、変わった人と思われるか無視されるだけで、人に認められて人からの報いを受けることにはなりません。日本の社会ではむしろ人前で祈るほうが神からの報いだけを求める密室の祈りとなるのです。だから恐れないで周囲の人達は存在しないと思ってもっと未信者の家族の前や学校や職場の人達の前やレストランで祈ったらいいのです。

また密室の祈りとは人に認められて満足するのをやめるだけでなく、自分で自分が祈っていると満足するのもやめることです。

「右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」

山に籠って孤独に何時間も祈って、“こんなによく祈ったから自分は神に近づいて霊的な人になれた”と自分で自分を認めることがありますが、それは「左の手に知られること」であり霊的高慢につながります。だから、そんなことは止めて、ただ神に期待してただ祈ればいいだけです。だから密室の祈りとは1日に3度の食事のようなものです。食事をしても人が注目することはないし、自分も何か善いことをしたとは思いません、ごく当たり前のことをしたと思うだけです。それと同じように密室の祈りとは食事のようにごく当たり前のことだと思いながら熱心に祈ることなのです。

祈りについてもう1つの基本的なことは

「祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」

です。この「異邦人」とはどんな人々か? 異邦人はユダヤ人とは対照的な人達です。ユダヤ人は本当の神を知っている人達ですから、異邦人はその反対で本当の神がわからない人達のことです。そして本当の神がわからないから、異邦人は偶像の神々に祈ります。「同じことばをただ繰り返す」とは何か?それは本当の神がわからなくて、偶像の神々を幾つも並べて“この神々のうち、どれかが自分の願いを聞いてくれるだろう”と同じことを繰り返して祈ることです。結局、どの神も本当に信頼できるお方ではないですから、それぞれの神に同じお願いを繰り返し、くどくどと祈るのです。では、本当に信頼できる神とはどんなお方か?

「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」

隠れたところにおられる神とは私達の必要を知っておられる信頼すべきお方です。異邦人のように“もしかして願いがかなうかもしれない”から祈りに加えようというお方ではありません。だから密室の祈りとは神への信頼に基づいた祈りです。その祈りは例えて言うと、幼い子供が親に語りかけお願いするようなものです。幼い子供は親を信頼しています。子供が“果たしてお父さんやお母さんは僕を育ててくれるだろうか?”などと疑うことはありません。子供は親を絶対的に信頼した上で“あれが欲しい、これが欲しい、ああして欲しい、こうして欲しい”とお願いします。同じように私達も神を信頼した上で“このようにして下さい、あのようにして下さい”とお願いし、神のみこころにかなったことは必ず成し遂げられると信じて祈り続けます。もしかしたら願いが叶うかもしれないという異邦人の祈りとは本質的に違います。密室の祈りとは、このような祈りなのです。

最後に、密室の祈りで大事なことは祈ることです。祈りがどういうものかわかっても、祈らなければ何の意味もありません。だから、どうぞお祈りください。祈りは、祈ることで出来るようになります。どれだけ祈りについて学んでも祈らなければ、祈りは身に付きません。だから、どうぞ普段の生活の中で、どこででも祈ることを心がけて下されば幸いです。隠れたところで見ておられる神が報いて下さることを期待してお祈りください。