マタイ6:9、ローマ8:15-17
“天にいる我らの父” 内田耕治師
聖書の神をどう呼ぶか?それは昔から大きな問題でした。ザビエルが布教を始めた頃、日本人従者のヤジロウが教えた仏教用語の大日をそのまま聖書の神を表す言葉として“皆さん、大日を拝みなさい”と布教し、仏教の一派だと思われました。その後、ザビエル達は大日がふさわしくないことがわかり、ラテン語で神を表すデウスをそのまま使い“大日を拝んではなりません。デウスを拝みなさい。”と言って人々は驚きました。宣教師達はその後もデウスを使いながらデウスの訳語を考えましたが、日本語の神という言葉は物や人間さえも表すのでキリスト教の神にふさわしくないことに気づき、デウスの訳語として天主という言葉を作りました。けれども、明治時代にプロテスタントの宣教師がやって来て聖書を日本語に翻訳するとき聖書の神を神と訳しました。それ以来、神という訳語は使われながら時々問題とされてきました。でも、多くの人は神がふさわしくないことは認めながら、宣教が進めば神という言葉に天地万物を造られた絶対的な唯一神という意味も定着すると考えて神を使ってきました。ところで、ある牧師は信者の人達が“神様”と祈っていると“神様”と祈るような人はあそこの神社に行きなさい”と言います。それは冗談でありながら、ただ神様と呼ぶだけでは足りないものがあることを教えています。
聖書も同じで、神を表すために旧約聖書は主という言葉を、新約聖書は父という言葉をよく用います。イエス様は神のことをよく父と呼んでいたし私達にも神を父と呼ぶことを勧めました。どうしてか?神が人間の父親に似ているからか?そうではありません。反対です。人間の父親は弱さを抱えていますから、父親らしくないこともしますが、神は完全な父です。神は父としての愛を最後まで貫きます。父親の原型は神なのです。だから聖書は神を父と言うのです。
主の祈りは神を「天にいます父」と言います。これはおそらく人間の父親ではなく神であることを明らかにするためです。私達が「天にいます父よ」と言うことは、神から離れていた私達がイエスキリストを通して神に立ち返り、神の子どもになったことを表わします。つまり背後に福音があるのです。私達は例えて言うと、父親と一緒にいるのが嫌で、財産の分け前を貰って遠い国に行き、そこで好き勝手な生き方をしたルカ15章の放蕩息子のようなものでした。彼は父親から遠く離れていたので“お父さん”と呼ぶことはなく、その言葉は彼のうちではほとんど忘れられたものとなっていました。その状態は、かつての私達やこの世の多くの人達を表しています。
けれども、放蕩息子が家に帰って久しぶりに父親と顔を合わせたとき「お父さん」という言葉がよみがえってきました。彼が「お父さん」と呼んだことは私達がイエスキリストを通して神に立ち返ったことを表します。すなわち、私達も救われて神と交わりを持てるようになったから神を父と呼べるのです。
「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって私たちは“アバ、父”と呼びます。」
イエス様を信じる私達には御霊が与えられ、その御霊によって私達は神を父と呼び、神の子どもとなります。「天にいます父よ」と祈る背後には、かつては神に背を向けていたけれども関係を回復して“今、神は私の父であり、私はその子どもだ”という信仰があるのです。また神を父と呼べるのは、私達が神の相続人であることを表します。
「子であるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです」
親は他人ではなく自分の子どもに財産を相続させます。だから神の子どもとなった私達は神の相続人です。何を相続するのか?天国です。またキリストとともに共同に天国を相続する者でもあります。私達は召されるまではこの世でキリストとともに歩み、実際に十字架にかかるわけではないですが、自分の十字架を担い、自分を捨て続ける歩みをしてキリストの苦難をともにしています。だからキリストが来るべき天国で栄光を受けるのと同じように私達も天国で栄光を受けることになります。私達が神を父と呼ぶ背後には、神の子どもであり神の相続人であるという凄い恵みつまり福音があるのです。神を父と呼ぶことについて人間の父親と比較して考えると、子供達が“お父さん”と呼ばないで“あの人”とか“あのおじさん”と呼ぶようになったら、お父さんは非常に寂しい気持ちになると思います。一方、私達が天の父を父と呼ぶことを忘れて神様と呼んでも天の父は寂しいとは思わず、天の父としての愛を最後まで貫かれますが、やっぱり父と呼ばれたいに違いありません。どうしてか?それは私達が神の子どもであることをしっかり心に留めてほしいからです。そういうわけでイエス様は「天にいます父」と呼ぶことを勧めているのです。
またイエス様はただ「天にいます父」だけでなく「天にいます私たちの父よ」と呼ぶように教えてくださいました。神とは私だけでなく私達の父なのです。その背後には教会の存在があります。私達はたった1人で信仰生活をすることはできません。もしたった1人で信仰生活をしたら、変な方向に走り、独りよがりの信仰になってしまいます。私達は信仰の友と一緒にスクラムを組んで歩むべき存在です。そうすることで変な方向に走ることや独りよがりになることを防ぐことができるからです。
私達の教会では、毎週、礼拝で主の祈りを祈っています。短い祈りですが、みんなで声を合わせて「私たちの父よ」と祈ることに意義があります。毎週やりますからマンネリ化してその深い意味を覚えることなく言葉だけが口から出るという危険性があります。だれでもそうなることがありますが、主の祈りは1人でゆっくり祈ることもできますから、その時にその深い意味を静かに黙想したらいいでしょう。一方、教会では教会を建て上げるという意義を考えながら、みんなで声を合わせて“神は私たちの父だ”という信仰に立って祈ったらいいでしょう。主の祈りとは教会的な祈りだからです。