マタイ6:9、エゼキエル36:23

“主の御名はあなたにとって特別です”  内田耕治師

 

文語版の主の祈りは“御名をあがめさせたまえ”ですが「御名が聖なるものとされるように」が忠実な翻訳です。「聖とする」とは選び分けて特別なものとすることです。主の御名は神々から選び別けられた特別なものです。特別なものとするから私達は主の御名をあがめます。「御名をあがめさせたまえ」は御名を聖なるものとした結果、出て来ることです。結果が「あがめることに」になるのなら「御名をあがめさせたまえ」でいいじゃないかと言う人がいるかもしれませんが、「御名をあがめさせたまえ」だけでは選び別けて特別なものとしたという大事なニュアンスが出て来ません。それで文語訳の主の祈りを止めてマタイ6章の主の祈りをそのまま祈る教会もあります。どうしてイエス様は「御名が聖なるものとされますように」と教えたのか?それは残念ながら主の御名が聖とされておらず、汚されている現実があるからです。

エゼキエル36章にイスラエル人にはそのような現実があったことが書いてあります。彼らは偶像によって御名を汚していました。彼らは主なる神を捨てたのではなく、先祖から受け継いだ主なる神を崇めていました。けれども、それとともに偶像をも拝み、偶像の名によっても祈っていました。つまり主なる神を唯一のお方としないで他の神々と同じように神々の1つとして扱っていたのです。それが主の御名を汚すことでした。その背後には自分を中心にした神観があります。神とは自分が欲しいものを与えてくれる存在なのです。その神観自体が主の御名を汚していたのです。

ところで、主である唯一の神を信じる私達も自分を中心にした神観に陥る危険性があります。自分の願いは何でもどんどん祈っていいのですが、自分の願いばかりを祈って行くうちに主の御名を呼んでいても私達の神観は自分を中心にしたものに限りなく近づきます。私達は偶像を拝むことはないから旧約時代のイスラエル人ほど酷くはないと言うかもしれませんが、自分のお願いばかりで主の御心がどこかに行ってしまうと、神観も歪んでしまい、その結果、主の御名を汚してしまうかもしれないのです。だから、それを避けるためにイエス様は「御名が聖なるものとされますように」という祈りを教えてくださいました。

では、御名を聖なるものとする祈りとはどんなことか? それはまず主の御名をみことばが教えるように呼ぶことから始まります。先週の復習になりますが、「天にいます私たちの父よ」神を父と呼ぶことから始まります。神という言葉は一般的な言葉です。神は聖書が教える創造主だけでなく、八百万の神々や偶像の神々をも表します。だから、神と言うだけでは私達はそう言う神と特別な関係はありません。けれども私達が神を父と呼ぶことで、私達はその神の子であるという特別な関係を持つことになります。

「あなたがたが子であるので、神は“アバ、父よ”と呼ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。」ガラテヤ4:6-7

イエスキリストを信じて救われた私達は御霊を与えられ、御霊によって神の子どもとなり、相続人となりました。相続するものは天国ですが、私達は神を父と呼ぶことによってみことば通りに自分は神の子であるという関係を自覚するのです。それが御名を聖なるものとすることなのです。また神を“父”だけでなく“主”と呼ぶことでも御名を聖とすることができます。

エゼキエル36:23「わたしが、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る――――神である主のことば――」

主という言葉が出て来ますが、御名を聖なるものとすることは、神を主と呼ぶことでもあります。主という言葉も私達と主なる神との特別な関係を表します。その関係はいろいろありますが、まずそれは羊と羊飼いの関係です。その関係を詩篇23篇がよく表しています。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。たとえ、死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。あなたの鞭とあなたの杖 それが私の慰めです。―――――」

「主は私の羊飼い」と言うことによって“あなたは私の主であり私はあなたの羊である”という関係を表します。その関係によって私達は主によって右にも左にも逸れることなく導かれ守られます。これが御名を聖とすることです。

次に神を“主”と呼ぶとき、私達は主に導かれることから一歩進んで主を愛し、主に従う者であることを表わします。イスラエル人が子供に最初に教える申命記6章

「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

は、主は唯一の神であると明確に定義しています。マタイ22章でイエス様も同じことを言っています。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

だから、私達が神を“主”と呼ぶとき、それは導かれるだけでなく、私達が愛し従うべき関係を表します。これが御名を聖とすることです。さらに私達が神を“主”と呼ぶとき、人生そのものが主のためだという特別な関係を表します。その良い例がローマ14章

「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」

私達の人生も命もすべて主のものであるという主との特別な関係を表しています。これも御名を聖とすることです。主の御名を聖なるものとすることの目的は何か?自分中心の祈りによって主の御心がどこかに行ってしまうことを防いで、私達が神の子として神に愛される者であり、主に導かれる羊であり、主を愛し、主に従うべき者だという自覚をしっかり持つようになることです。そうすることで私達は神の愛をいっぱい受けて、主に導かれて守られ、主を愛し、主に従う者に成長することができます。そのために、私達は主の御名を聖なるものとしていくのです。

最後に聖書にも神という言葉がありますから神と言っていいのですが、人間は口から出た言葉の通りになっていくものです。だから神を父と言えば、自分は神の子であり、神に愛された者だとよりわかり、神を主と言えば自分は主に導かれる羊であることがよりわかり、主の導きをより求めるようになり、また主とは自分が愛し、従うべきお方であることがよりわかります。だから神を父と呼んだり、主と呼んだりして御名を聖なるものとすることは大切なことなのです。なぜなら父とか主という言葉は私達と神との特別な関係を表すからです。