マタイ26:17-29

“主と弟子たちの最後の食事”  内田耕治師

 

イエス様は前もって過越の食事の手はずを整えていたようです。弟子達はエルサレムに行き、イエス様の言われた通りにしました。過越の食事ではイエス様は弟子達の中に裏切る者がいることを語ります。イエス様とユダの言葉のやり取りを見ると、一見、他の弟子達もユダが裏切ることがわかったように見えますが、わかっておらずイエス様だけがわかっていました。

いろんな事柄がイエス様の十字架の意味を表します。まず過越の祭りは、大昔にイスラエル人がエジプトを出た出エジプトを記念するものです。イエス様の時代、神殿で過越の子羊が屠られました。イエス様が過越に十字架にかかるのは、御自身を過越の子羊になぞらえているからです。大祭司や祭司長達や長老達はイエス様を亡き者にするのは「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と言いましたが、主の御心は過越の間にイエス様が十字架にかかることでした。

ただし、出エジプトの過越の子羊とイエス様の十字架ではその意味は違います。出エジプトは奴隷からの解放ですが、イエス様が過越の子羊であるとは私達を支配する罪から私達を解放することです。それは罪の赦しです。だからヨハネの福音書で預言者ヨハネはイエス様のことを「世の罪を取り除く神の子羊」と言いました。また過越の祭りのとき種なしパンの祭りも同時に行われました。それはイスラエル人がエジプトを出る時、種なしパンを食べたことを記念して定められた祭りですが、イエス様はよくご自身をパンになぞらえています。ただし、出エジプトのパンとイエス様のパンではその意味は違います。出エジプトで種なしパンとは、エジプトを出る時はぐずぐずしておられず種を入れてパンが膨らむまで待つ時間がなかったので、主は種なしパンを食べるように命じました。けれども、新約時代になってパン種は罪や悪を表すようになりましたからパン種がないことは罪や悪がないことの象徴です。すなわち、イエス様が種なしパンの祭りに十字架にかけられたのは、罪のないイエス様が人類の罪の身代わりとして十字架にかけられることを表わします。

イエス様がパンによって御自身を表すのは、この時が最初ではありません。ヨハネの福音書6章の5000人の給食の後に語った説教でイエス様は「わたしはいのちのパンです」と語りました。その説教ではそのうちにパンが肉に移り変わり「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持っています。」と語りました。そして弟子達との最後の食事でイエス様は十字架で裂かれる自分の体をパンで表しました。さらに十字架で流すご自身の血は「罪の赦しのために流される、わたしの契約の血」だと語りました。「契約」とは、それまで旧約時代にあった古い契約ではなく新しい契約です。エレミヤ31章「わたしは彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起さない」という預言の成就です。「人の子は、自分について書かれているとおりに去っていきます。」という言い方でも十字架を予告しました。

このように十字架の準備が整い、もうすぐ去っていくときに、イエス様には1つだけ気がかりなことがありました。それは、イスカリオテ・ユダのことでした。ユダは金に目が眩んで心が主から離れてイエス様を引き渡そうとして滅びの一歩手前をさ迷っていました。けれどもイエス様は最後の最後までユダを滅びから救い出そうとしていました。どうしてか?ユダも主にとっては大切な1人だからです。ユダは99匹を山に残してでも捜しに行く1匹なのです。滅びにまっしぐらに向かっている者を救い出すにはどうするか? 普段、信仰に導くときのような優しい言葉では効き目がないから厳しい警告をしなければなりません。エゼキエル3章は警告することを命じ、もし警告しないで滅びるに任せるならば、その責任を問うとまで言っています。だからイエス様は最後の最後まで働きかけ警告を与えました。

「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの1人がわたしを裏切ります。」「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります」鉢とはパンを浸すためのものだから、みんなが手を鉢に浸しています。つまりイエス様は全員に向けて語りかけましたが、ユダが裏切ろうとしていたことは他の弟子達には隠されていました。

「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」と非常に厳しいことを言いました。ユダは「先生、まさか私ではないでしょう」と言いましたが、イエス様は「いや、そうだ」と答えました。一見、他の弟子達にもわかるような感じがしますが、結局、最後の最後までユダの裏切りは隠されていました。

もし弟子達がユダの裏切りを事前に気づいたらどうなったか? 弟子達の間で人民裁判が起こり、ユダは糾弾され、追い出され、最悪の事態になれば殺されたかもしれません。そうなれば悔い改める機会がなくなります。イエス様はユダが悔い改めて立ち直り、何事もなかったかのようにして今後、他の弟子達と共に歩むようになることを望んでいました。だから、イエス様は最後の最後まで内密にユダに働きかけました。それは滅びゆく者を救うための愛なのです。滅びゆく者を救うための愛とは、相手が悔い改める見込みがなくても救われる予想がなくても注ぐ愛です。普通、ビジネスは儲ける見込みがあるとか収益を得る希望があるからやるものです。けれども、神に背を向けて滅び行く人を、悔い改めさせ救いに導く働きは見込みがなくても絶望的でもなすべき働きです。

医者はもうほとんど手遅れの場合でも見捨てず出来る限りのことをします。魂の救い場合も同じです。たとえ反発する人でも、無視する人でも、裏切る人でも見捨てず悔い改めに導くために出来る限りのことをします。宣教とは見込みがなくてもすることです。悔い改める見込みがない人達ばかりです。見込みを考えていたら何もできません。だから、まず主に期待して見捨てず祈りつづけ働きかけつづける。そのことをイエス様はユダを最後の最後まで見捨てず働きかけたことで身をもって教えてくださったのです。