マタイ26:30-56

“一度は散らされる羊の群れ”  内田耕治師

 

弟子達との最後の食事が終わると、イエス様はオリーブ山に向かいました。その時に弟子達がみな躓(つまず)くことを予告しましたが、ペテロも他の弟子達もそれに反発して躓くことはないと言い張りました。どうして彼らは言い張ったのか?彼らは希望を抱いてイエス様について来たけれども、迫害が激しくなり、離れていく者が増え、12弟子からも裏切る者が出るとイエス様が言い、さらにみなが躓くと言ったので彼らの不安な心を見透かされたようで意地を張って反発したのです。

次にゲッセマネに来ると、イエス様は必死に祈っていたのにペテロとゼベダイの2人の息子達はまったく無関心であるかのように居眠りをしていました。イエス様は呆れてしまい「まだ眠って休んでいるのですか。」と言いました。するとユダがイエス様を捕らえるために大勢の群衆を引き連れてやって来ました。その時、弟子の1人は大祭司のしもべに切りかかり、耳を切り落としました。けれどもイエス様は自分の逮捕はみことばの成就だと語りました。すると弟子達は全員恐れをなして、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。結局、イエス様が予告した通りになりました。

人間は物事が上手く行くとき自信を持ち、案外、高慢で、そういう人にみことばを語ってもあまり真剣に聞こうとしません。けれども、物事が上手く行かず自信を失い、不安になるとき高慢が打ち砕かれ、謙遜になりますから、みことばに耳を傾けるようになります。だからイエス様が捕らえられて弟子達が散らされたときはイエス様が彼らに伝えるべきことを伝える絶好の機会でした。イエス様は彼らに必要なことを教えました。それは神の御心を求めることでした。そのためにイエス様は実際に御心を祈る祈りをして身をもって教えました。それがゲッセマネの祈りです。その御心とは十字架ですが、イエス様は十字架を恐れながらも「あなたの御心がなりますように」と祈りました。それは弟子達もそれにならって御心を祈るようになるためでした。イエス様はみことばも与えました。「あなたがたはこのように、1時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです」主が御心を祈るとき弟子達に誘惑が働き、彼らは居眠りしました。御心から目を逸らしてしまう肉の弱さがあるからです。だからイエス様は目を覚まして祈りなさいと教えました。それは目を開いてしっかりと御心を見なさいということです。

ところが、そうは言うものの人間は御心を見ないで自分の思いでやってしまい、主の導きから外れかかることがあります。だからイエス様は自分の思いではなく主の御心を大事にすることを教えました。それがイエス様が逮捕されたときの出来事です。イエス様が逮捕されたとき、弟子の1人は剣を出して大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落としました。それは自分の思いで力任せに何とかしようとしたことです。それに対してイエス様は「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と語りました。「剣」とは自分の思いを表します。自分の思いで力任せにやってしまうと神の御心を妨げることがあるのです。それが一番よくわかるのは人を救いに導くときです。私達はみことばを伝えたり祈ったりすることはできますが、その人を悔い改めさせ信じさせることはできません。それは神がなさることです。それなのに私達は時々自分の思いで力任せに事を進めるので上手く行きません。上手く行かないことによって宣教も教会形成も神の御心を求めなくてはならないことを思い知らされます。

では、弟子達に与えられた主の御心とは何か?それは、彼らからイエス様が一旦取り去られることでした。これまでイエス様は何度か自分が苦しめられ殺されて3日目によみがえることを予告していましたが、弟子達はそれがわからず恐れて聞こうとしませんでした。彼らの目は閉ざされていたのです。けれども、神の御心とは、羊飼いであるイエス様が打たれて彼らから一旦いなくなることでした。そのことがわからなければ、弟子達は福音を宣べ伝えることも、教会を建て上げることもできません。だから、イエス様は最後の最後までご自身の十字架を語りました。「しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者達の書が成就するためです」そう言い残してイエス様は連れて行かれました。弟子達はみんなイエス様を見捨てて逃げてしまいましたが、イエス様がそう語られたことは弟子たちの心に留まり、そのみことばを通してやがて本当のイエス様がわかり、主の御心を受け入れて福音を宣べ伝え、教会を建て上げることができるようになりました。そのことをゼカリヤ書13章の預言はあらかじめ語っています。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる」には続きがあります。それは「わたしが、この手を小さい者たちに向ける」です。羊の群れは散らされて終わりではないのです。主が小さい者たちに手を向けたから彼らは再び集められて立ち上がり、福音を宣べ伝え、教会を建て上げるようになりました。けれども、そのためにはイエス様が一旦取り去られ、弟子達は散らされる必要があったのです。

ところで、私達も弟子達と同じように羊飼いが打たれて一旦散らされることがあります。それはとんでもない試練に遭遇し、何の助けも得られなくて弟子達と同じように主が取り去られたという思いになることです。けれども、それは一時のことです永久に続くのではありません。その試練を乗り越えれば、“イエス様は戻って来られた、散らされた自分が再び集められた”と思えるようになります。そして新しい世界が開けて大いに用いられるようになります。それは“主が、その手を小さい私達に向けて下さる”からです。だから、しばらく試練を受けざるを得ないことを主の導きの中で与えられた主の御心と受け止めるのです。弟子達から一旦イエス様が取り去られたことは、彼らにとって受け入れがたいことでしたが主の御心でした。同じように、私達にも受け入れがたいことでもそれを受け入れることが主の御心なのです。試練をこのように考えるならば受け入れやすくなるのではないでしょうか。そう考えたら、いつまでもブツブツ呟く必要がなくなります。散らされるのは、主がその手を向けて再び集められて大きく用いられるようになるためと考えることができるからです。希望をもって歩んでいきましょう。