マタイ26:57-75

“打たれることで救い主となる羊飼い”  内田耕治師

 

イエス様は人間の罪のために打たれることによって救い主になった羊飼いです。そのために神はイエス様を罪に定め十字架にかけた大祭司や祭司長達を用い、イエス様を見捨てた弟子達も用いました。大祭司や祭司長達はイエス様を亡き者にすることを企んでいたのでイエス様の裁判を死刑という目的で行いました。目的が決まっていたので大祭司達は手っ取り早く判決を出そうとしていました。夜、イエス様は逮捕されてそのままカヤパの邸宅に連れて行かれてそこには祭司長たち、律法学者たち、長老たちが待ち構えていました。

でも、イエス様に不利な証言はすべて偽証だったのでイエス様を罪に定める証拠はありませんでした。それで2人の者が「神殿を壊して3日で建て直す」とイエス様が言ったと証言したことをキッカケにして最後に大祭司が「おまえは神の子キリストなのか、答えよ」と質問しました。するとイエス様は「あなたが言ったとおりです」と神の子キリストであることを認めました。さらに「しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」と言って自分を神と等しい者としました。すると大祭司やその他の人達はそれを冒涜と受け止めました。

ダニエル7章を読めばわかります。ダニエル7:13-14「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は“年を経た方”のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と栄誉と国が与えられ、―――その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」

「人の子のような方」は世の終わりに主権と栄誉と国が与えられ、その主権は永遠で滅びることがないお方つまり神と等しいお方です。イエス様は自分を「人の子」だと言うことによって自分を神に等しい者つまり神としたのです。イエス様はそんなことを言ったら、ただでは済まないことがわかっていました。けれども、イエス様は事実ひとり子の神であり、またそれを明かすことで罪に定められ十字架にかけられることが神のご計画だとわかっていました。だから、あえて自分が神と等しい者であることを明らかにしました。

すると、案の定、大祭司は激怒してイエス様を冒涜罪に定めました。ほかの人達も「彼は死に値する」と言って大祭司の判決に同意しました。それで冒涜罪の判決が決まりイエス様は十字架を目指して歩むことになりました。続いてそれを象徴する出来事が起こりました。イエス様は顔に唾をかけられ、拳で殴られ、平手で打たれ、あざけられました。これらはイエス様がこれから打たれることで救い主となることを象徴する出来事でした。

一方、裁判の間、ペテロは大祭司の邸宅の中庭にいましたが、召使いにイエス様との関わりを言われて、慌ててイエス様を否認しました。イエス様はこれまで手塩にかけて育ててきた弟子達に見捨てられたのです。そうなると知ってはいたものの、それはイエス様にとって心を打たれる出来事でした。けれども弟子達に見捨てられたことは、新しいみわざの始まりでした。「鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言います」これはペテロがイエス様を見捨てることだけを予告したのではなくて再び立ち直ってイエス様に従うことを予告したみことばです。その証拠にルカ22章ではこのみことばの前にイエス様は「シモン,――、見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と語りました。イエス様は自分がこれから十字架にかけられた後で、ペテロを始めとする弟子達が立ち直り、イエス様を救い主として宣べ伝えて神のご計画を進めるようになることがわかっていました。だから、弟子達にも捨てられることを良しとして、十字架の道を突き進みました。なぜなら、イエス様は打たれることで救い主となられる羊飼いだからです。

イエス様を否認してしまったペテロは「鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言います」というイエス様のことばを思い出して激しく泣きました。彼の涙とは何を表しているのか?少し前に強いことを言っていたのに、その場になったら怖気づいて主を見捨てた自分の不甲斐なさを嘆いたと、まずは言えますが、それだけではありません。彼は、不甲斐ない自分は主を見捨てたのに、そんな自分が立ち直り、大きく用いられるご計画を進めながら黙って十字架の道を歩んだ主の姿とその背後にある愛に圧倒されて流した涙なのです。そしてペテロはそのような主の愛に圧倒されたからこそ、生涯主イエスの羊として従うことができたのです。

そして今も不甲斐ない罪ある私達は知っていながら、あるいは知らないうちに主を打って苦しめています。けれども主はそんな私達を大きく用いる計画を進めながら黙って打たれて十字架にかかって下さいます。それが私達に対する主の愛ですが、そのような主の愛を思えば、ペテロのように圧倒されて主イエスの羊として従うことができるのではないでしょうか。私達が自分の罪のゆえに打ち、見捨てるイエス様が、私達の救い主であり、羊飼いであり、私達はその羊であることを覚えて行きましょう。