マタイ26:1-16
“香油が語る主の十字架” 内田耕治師
この箇所は場面が目まぐるしく移り変わりますが、よく読むと4つの場面があることがわかります。
1つ目は1-2節でイエス様が弟子達に自分は過越の祭りに十字架にかけられるために引き渡されると予告する場面です。その場所は神殿の前だと考えられます。2つ目は、3-5節で大祭司カヤパと祭司長達と長老達が集まって話し合いをしている場面です。場所はカヤパの邸宅です。3つ目は、6-13節で1人の女性がイエス様に香油を注ぐ場面です。この場面は今日の箇所では一番長く詳しく書いてあります。場所はベタ二ヤのシモンの家です。ベタ二ヤはエルサレムの南東約3キロにある村でイエス様はよくそこを訪ね、特に生涯の最後はそこからエルサレムに通ったと考えられます。4つ目が、14-16節で12弟子の1人であるイスカリオテのユダが祭司長達から銀貨30枚を受け取り、イエス様を引き渡す機会を狙い出す場面です。その場所はおそらくカヤパの邸宅だと考えられます。
これらの箇所には主の十字架に特にかかわる3種類の人々が出て来ます。まず主の十字架に関わった一番目の人達は大祭司カヤパや祭司長達や民の長老達でした。彼らはイエス様を憎み、イエス様を亡き者にしようと企んでいました。「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」彼らはみんなが知らないうちにイエス様を闇に葬ることを考えていました。
次に主の十字架に関わった二番目の人はイスカリオテのユダです。イスカリオテとはカリオテの人という意味で他の弟子達はみな北部のガリラヤ出身でしたがユダだけが南部のユダヤ出身でした。彼は、会計を任されるほど信頼される弟子でした。彼は大祭司や祭司長達や長老達と違ってイエス様を目の仇にして亡き者にするつもりは全くないし、かえってイエス様に期待し従おうとする気持ちがありました。けれども、そんなユダがどうして裏切ることになったのか? ユダにはいろんな思いがあったと考えられますが、確かに言えることは、彼がお金に目が眩んだことです。彼は祭司長達に「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう」と言いました。ある女性が高価な香油をイエス様の頭に注いだことを見て、弟子達が“高く売って貧しい人達に施しが出来たのに”と言ったとありますが、ユダはそう言いながら、実は金入れからお金を盗んでいたとヨハネ伝に書いてあります。ユダはお金のためにイエス様を引き渡しましたのです。
主の十字架に関わった三番目の人は、香油をイエス様の頭に注いだ女性です。彼女はイエス様を愛し慕い従い、いつまでもイエス様の側にいたいと思うような人でした。けれども、その時、どういうわけか主の導きで彼女は自分のイエス様が取り去られることを感じていました。彼女にとっては受け入れ難いことでしたが、どういうわけか主の御心として受け止めてイエス様を主の御手に委ね、愛をもって見送ろうとしていました。そのために高価な香油を最大の贈り物としてイエス様の頭に注ぎました。イスラエルでは古来、王様が即位するとき、頭に油を注ぐという儀式が行われましたから彼女はイエス様を王として祝福したのです。弟子達は“無駄遣いだ”と憤慨しましたが、彼女はまったくお金のことは考えず、高価な香油を惜しみなく注ぐことで最大限の愛を表しました。
ところで、彼女がしたことは、彼女の思いを越えてイエス様の十字架の予告するものでした。高価な香油は小さな壺に入っていました。マルコ伝には、壺を割って注いだと書いてあります。マタイもマルコも同じ出来事を書いていますから、彼女は壺を割って香油を注ぎました。壺を割る行為は何かを象徴的に表しています。それはやがて十字架にかけられてイエス様の体が裂かれることです。とすると、注がれた香油は、おそらくイエス様が十字架で流される血潮を表します。
「この香油をわたしの体に注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです」埋葬と言えば当然、その前に死があります。死とは何か?それはイエス様が十字架にかけられることです。それはまたイエス様の死によって人間に救いをもたらす福音が定められたということです。イエス様は、この福音を宣べ伝えることが何よりも大事であることを教えています。それは彼女の無駄遣いを責める弟子達とイエス様の言葉のやり取りに現れています。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。」これは貧しい人達は弟子達の周りにいつもいるから頻繁に助けることができることです。「しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」イエス様はもうすぐ死んでいなくなることです。だから彼女はイエス様に対して良いことをしたと言っています。
けれども、それだけではありません。どうしてか?「わたし」はイエス様だけでなく、さらに何かを表すからです。それは何か?イエス様の死によってもたらされる福音です。「わたしがいつも一緒にいるわけではない」とは、福音を伝える機会は貧しい人々を助けることほど頻繁にあるわけではない。だから彼女が高価な香油を惜しげもなく注いだのと同じように機会があれば時間や労力を惜しげもなく払いながら福音を伝えなさいということです。
福音を伝えるために機会を最大限に生かすことは非常に大事なことです。なぜなら福音を伝えたい相手はいつでも心を開いているわけではないからです。多くの場合、閉ざされているか、ほんの少ししか開いていない場合がほとんどです。でも、主の導きの中で開かれる時があります。その機会を十分に生かして時間や労力を惜しみなく献げて福音を伝えたら豊かな実を結ぶことができます。また伝える私達の側にも機会があります。けれども主の導きの中でその機会を失うこともあり得ます。だから、機会が与えられているときに惜しみなく福音を伝えるべきなのです。
エペソ5:16「機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです」今は福音を伝える者にとって人々は、心に虚しさは感じていながら物質的な豊かさや便利さや快適さで満足して信仰に関心を持とうとしない悪い時代です。でも、そんな時代でも主は私達に福音を伝えるための機会を与えています。だから私達のすべきことはその機会を最大限に生かし惜しみなく福音を伝えることなのです。