マタイ27:1-26
“キリストを殺した人達” 内田耕治師
イエスキリストを殺した人達は大雑把に分けて4つのグループに分けることができます。
第一にキリストを殺した人達とは大祭司と祭司長達と長老達でした。彼らは自分達よりも正しく民衆に愛されたイエス様を妬んで前々からイエス様を亡き者にする計画を練っていました。26章の真夜中の裁判でイエス様に冒涜罪で死刑の宣告を下し、ローマ法には冒涜罪と言う罪はなかったのでイエス様をローマに対する反逆罪で訴えるために夜明けに再び話し合いをしました。彼らはイエス様を憎んで生かしておけないという思いに凝り固まり、それが正義だと思い込む確信犯でした。彼らには自分の悪い思いや考えを正当化してしまう罪がありました。
第二にキリストを殺した者とは弟子だったユダでした。ユダは初めイエス様を主として忠実に従い、みんなから信頼されて会計係を任されるほどになりました。けれども、いつからか金入れから少しずつお金を盗み出しました。彼は見つからなければ大丈夫と思うようになって盗みを続け、だんだんエスカレートしてついに銀貨30枚でイエス様を引き渡してしまい、しかも、そんなに悪いことと思わず、たぶん、そうすることでイエス様はやっと重い腰を上げて神のみわざを始めるだろう位に思っていました。けれども、彼はイエス様が死刑に定められたことを知ってやっと目が開かれ、自分の罪に気がつきました。彼には罪に対して鈍感な罪がありました。
第三にキリストを殺した者とはローマの総督ピラトでした。ピラトはこの時、初めてイエス様に出会いましたが、彼は何の武力もないイエス様は反逆者でないことはわかっていたし、イエス様が言う神の国はこの世のものではないことをイエス様から聞いていたし、また祭司長達や長老達が妬みからしていることを知っていました。また妻を通してもイエス様が正しく罪のないお方であることを示されていました。だから、彼は裁判官としてイエス様を無罪にすべき立場にありました。けれども、彼は初めからイエス様の無罪を主張することを避けて、その代わりに祭りに群衆が望む囚人を1人釈放するという慣わしを利用して、イエス様を釈放することを考えました。そもそも裁きをつけるのは彼の仕事なのに、群衆が騒ぎを起こし、さらに暴動でも起こったらローマの総督としての自分の首が飛ぶかもしれないと恐れて、群衆のご機嫌を取り、自分がするべき仕事を群衆にゆだねてしまいました。彼が「キリストと呼ばれるイエスをどうするか」と尋ねると、群衆は「十字架につけろ」と叫んだので彼は群衆の言いなりになりました。その後で彼は「あの人がどんな悪いことをしたのか」と言いますが、それは最初に言うべきことでした。最後に「この人の血については私には責任がない。おまえたちで始末するがよい」と言って責任逃れをして、バラバを釈放し、イエス様を十字架につけるために引き渡しました。彼は正しいことを知っていながら圧力に屈して正しいことをしない罪を犯しました。
第四にキリストを殺した人達とは群衆です。彼らはイエス様がどういうお方かわかっていないし、祭司長達や長老達がなぜイエス様を殺したがるのかもわかりません。彼らは善悪の判断ができず、ただ踊らされて「十字架につけろ」と叫び続けてイエスキリストを殺しました。彼らは無知によって煽動される罪を犯しました。この4つの罪は私達のうちにもありますが、以上のような人間の罪が複雑に絡み合ってキリストを十字架に追いやり殺すことになりました。
けれども、人間の罪によってキリストが殺されて救いの道を定めることが神のご計画でした。イザヤ53:4-6。まことにイエス様は私達の病を負い、私達の背きのために刺され、私達の咎のために砕かれました。けれどもイエス様への懲らしめによって私達に平安が与えられ、イエス様の打ち傷のゆえに私達は癒されました。すなわちキリストが私達の罪によって殺されることで私達は救いを受けることができるようになりました。罪に縛られ、罪を犯し続けていても、ただキリストを信じるだけで罪の赦しが与えられて救われます。それは神の恵みです。救いが神の恵みであることは最も大切なことですが、特にユダはそのことをその死によって教えてくれます。ユダは私達にとって反面教師です。罪に対して鈍感なユダが「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」と自分の罪に気づいて告白できたのは、この世的には遅すぎたことですが、神の目から見て素晴らしいことでした。けれども、その後が良くなかったのです。「われわれの知ったことか、自分で始末することだ」ユダは“自分で何とかしなくては”と思って首をつって自殺してしまいました。罪はイエス様が負うべきなのに、ユダは自分で自分の罪を負ってしまいました。そこが彼の間違いでした。だから、この出来事は“そうしてはならないこと”を教えているのです。
ガラテヤ2:21「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」
キリストの十字架による救いは神の恵みです。恵みのゆえに私達の信仰によって得られる義です。私達が律法を行うことによって得る義ではありません。けれども、もし私達が律法を行うことによってその義を得ようとするなら、キリストの死は無意味になり、それは神の恵みを無にすることになります。
だから、自分の罪を自分で何とかするようなことはしないで、罪はすべてキリストに負っていただいて私達は救いを受けたらいいのです。私達がある家に食事に招かれたとき、私達のために、奥様は心を込めて食事を作り、主人はテーブルや椅子を並べて準備します。招かれた私達は出された食事を感謝して食べることで良い交わりを持つことができます。けれども、もし私達が自分のお腹は自分で満たすと言ってお弁当を持ってきて出された食事を食べなかったら、招いてくれた方の好意を無駄にする大変な失礼になります。キリストによる救いとは出された食事です。出された食事をいただくように、キリストが私達の罪を負って死んでくださったことをそのまま信じていけばいいのです。私がキリストを殺しました、だから救われましたと堂々と告白すればいいのです。罪を自分で何とかしようなどと思うべきではありません。それは神の恵みを無にすることですから。