マタイ27:57-28:10

“予告して甦られたイエスキリスト”   内田耕治牧師

 

死は人を選ばず万人に対して平等です。人間は死の向こうに何があるか見ることを許されておらず、多くの人達が死を恐れて“死んだら終わりだから生きているうちが花だ”と思い、生き返ることなどあり得ないと考えます。弟子達もイエス様が十字架にかけられ、その体が砕かれ、たくさん血を流して死んだところを見てイエス様の復活など全く考えていませんでした。祭司長達やパリサイ人達も弟子達が“イエスはよみがえった”と民に言うかもしれないから番兵達に3日後まで墓の番をさせるようにピラトにお願いしました。けれども彼らも“弟子達が遺体を盗み出して”と言ったようにイエス様が復活するなど全く考えていませんでした。

マグダラのマリヤを初めとする女性達もイエス様の死や埋葬を見て同じように考えていました。彼らはイエス様が死んでからも慕う気持ちを持ち、週の初めの日の早朝に墓に行き、よみがえった主に出会いました。けれども、それはよみがえったイエス様に会うためではなく、ただ遺体に良い香りがする香油を塗るためであり、彼らの心に主の復活など全くありませんでした。だから彼女達は御使いからイエス様の復活を聞いたとき大喜びしました。さらに復活した主が“おはよう”と言って現れたとき彼女達はその足を抱き主を拝しました。でも、“予告通りによみがえった”と思ったのではありませんでした。

ところで聖書はイエス様の復活が事前によく予告された出来事だったことを念入りに記しています。マタイ16章で自分がエルサレムに行って、長老達、祭司長達、律法学者達から多くの苦しみを受け、殺され、3日目によみがえると語ったことが最初で、その後17章でも20章でも復活の予告を語っています。弟子達だけに復活を予告したにもかかわらずイエス様に敵対する祭司長達やパリサイ人達にも広がっていました。また墓に現れた主の使いもイエス様が前々から復活の予告をしていたことに触れました。「前から言っておられた通り、よみがえられたのです」復活が予告されて起こった出来事であることを思い出させるような言い方です。

では、主の復活が予告されて起こったとはどんな意味があるのか? それは復活がたまたま起こったことではなく十字架の死とともに神のご計画として起こったということです。私達は主の十字架が神のご計画であることをよく話すますが、復活は十字架ほど多く話すことがありません。でも、復活も前もって予告された神のご計画です。詩篇16:10「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです」イエス様は死んで、その魂は陰府に下りました。けれども、神は御子のたましいを陰府に捨て置くことをしないで再び栄光の体を与えて死者の中からよみがえらせました。主の復活は神のご計画なのです。

世の終わりに私達も復活します。ダニエル12:1-2「しかし、その時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。――――」

旧約時代には、世の終わりに神がさばきを行い、救われて永遠のいのちを受ける者達と裁かれて永遠の刑罰を受ける者達が現れ、救われる者とは神が持つある書に名前が記された者だと示されていました。けれども、どうしたらその書に名前が記され救われるのかはまだ示されていませんでした。けれども、今から2000年前、私達の罪のために死んで初穂としてよみがえったイエス様を信じることで救われることが示されました。イエス様の復活とは、イエス様を信じて救われた私達が世の終わりに同じようによみがえり永遠のいのちを受ける道筋を作るものです。がから主の復活は私達にとって良い知らせです。

弟子達は主の復活という良い知らせを世界で最初に宣べ伝える証人として立てられた者達でした。けれども、彼らが主の復活の証人として良い知らせを宣べ伝えるようになるにはあと少しだけ準備が必要でした。それがガリラヤに行くことでした。ガリラヤに行くとは何を表すのか? それは再出発することでした。ガリラヤは弟子達がイエス様に召されて弟子としての歩みを始めた彼らの原点です。だからイエス様は彼らの原点であるガリラヤに彼らを一旦戻してそこから再出発させようとしたのです。

彼らにとって再出発とはそれまでしていたことを清算して新しい歩みを始めることでした。かつて彼らは復活の予告を耳にしても“まさか、そんなことが”と言うような人達でした。また彼らの目指していたことはイエス様を王としてイスラエルの国を再建し、自分達は新しい国で重要なポストを得ることでした。彼らはもっぱらこの世的なことを考えていました。けれども、彼らは再出発してからは嘲られてもバカにされても怯むことなく大胆に“主はよみがえられた”と宣べ伝える主の復活の証人となりました。また主の復活は初穂であり、自分達も世の終わりによみがえって永遠のいのちを受けることを信じ、宣べ伝えるようになりました。それが、彼らが再出発して始める新しい歩みでした。

私達も彼らと同じことをしています。私達もかつては主の復活を耳にしても“まさか、そんなことがあるのか”と言うような者でした。けれども、今はイエス様の復活を信じているし“死んだイエス様はよみがえりました”と語る主の復活の証人です。またかつては私達もこの世で活躍して良い評判を得たり、良い地位を得たり、大きな収入を得たりすることだけを考えていました。また死んだら終わりだと思っていますから、この世の地位や財産や業績がすべてになり、成功した者は崇められ、成功できなかった者は貶められるという価値観でした。けれども、イエス様を信じて永遠のいのちを待ち望むようになり、人生とは死んですべてが終わりではなく、死後も神とともに永遠に続くものだと思うようになりました。その結果、人間はこの世の地位や財産や業績だけでは測れることができず、人間は人間であるだけで尊いという価値観を持つようになりました。

また、だれでもイエスキリストを信じたら永遠のいのちが与えられますから、イエスキリストの良い知らせをお伝えし、救いに導くことが一番大事なことだと思うようになり、そのために祈ったり、みことばを伝えたりしています。私達も弟子達と同じように救われる前の考え方や価値観を清算して新しい歩みをしています。そして弟子達と同じように私達が新しい歩みができるのは、イエスキリストが復活されたからです。イエス様の復活は私達の人生に大きな変革をもたらしてくれました。だからイエスキリストの復活を、歴史的事実として記念して祝うのはもちろんのこと、それだけでなく、私達の生き方を変えてくれた出来事としてお祝いしていければ幸いです。イースターおめでとうございます。