マタイ28:1-20

“あらゆる国の人々を弟子とせよ”  内田耕治師

 

28章は、教会という言葉は1つも出て来ませんが、主が復活後、弟子達を教会建設に向かわせたところです。「ガリラヤに行くように言いなさい」は鍵となるみことばです。ルカ伝はイエス様が昇天までずっとエルサレムにいたように読み取れる書き方です。ヨハネ伝は主の復活後、弟子達が湖で漁をしてそこにイエス様が現れたことが書いてあるからガリラヤに戻りました。マルコ伝にはガリラヤに戻ることはほんの少しだけ出てきます。

それらに比べてマタイ伝はガリラヤという名前が何度も出て来てエルサレムから一旦ガリラヤに戻ることにこだわった書き方をしています。どうしてか?ガリラヤは弟子達がイエス様に召されて宣教を始めた弟子としての原点だからです。すなわちガリラヤに戻ってそこでイエス様から大宣教命令を受けて宣教を始めるとは、彼らが弟子として再出発することを表しています。

かつて彼らが求めていたことはユダヤ人の国を再建してイエス様がその王となり、自分達がその国の重要なポストに就くことでした。けれども再出発してからはイエス様の復活の証人として自分達も世の終わりに復活して永遠のいのちにあずかるという信仰をもって福音を宣べ伝える者となりました。

ヨハネ18:36「わたしの国はこの世のものではありません」イエス様が目指した国はこの世の国ではなく御国でした。その宣教の初めから目に見えない御国の拡大を目指していました。初め弟子達はそれがわからなかったのですが、イエス様の死と復活を経てガリラヤから再出発することで彼らも御国の拡大を目指すようになりました。

ところで、この世で目に見えない御国を広げるとは目に見える教会を建て上げることです。教会とは何か? 教会は御国ではないですが、キリストをかしらとする体です。そして信者の1人1人はキリストの体の各部分です。まずイエス様はその権威によって弟子達を宣教に派遣しました。「人々を弟子にする」とは人々を自分ではなくキリストの弟子にすることです。キリストの弟子とはキリストをかしらにする者です。そしてキリストをかしらとする者達が集まれば、それはキリストの体である教会になります。だから大宣教命令とは教会を建て上げる命令です。「あらゆる国の人々を」とは、特定の国や民族だけでなく全世界に出て行ってキリストの弟子達を生み出し、教会を建て上げることです。実際、今アメリカはキリスト者の数が多いですが、かつて多かったヨーロッパよりも南米、アフリカ、アジアのほうが多くなっています。今はヨーロッパに宣教師を派遣する必要がある時代です。またイスラム圏やイスラエルや日本は良くない歴史のゆえにキリスト者が少ない地域ですが、今後はもっと宣教がなされるべきところです。世界のどの国でも、どんな民族にも福音が宣べ伝えられて教会が建てられることが主のみこころだからです。

キリストをかしらとする教会を建て上げるとはどうすることか? 「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授ける」細かい神学的な議論は避けて、まず父、子、聖霊の名においてバプテスマを受けることで三位一体の神を唯一の神として崇めていくことがキリストの弟子となり、教会に加えられることです。それは初代の弟子達がしていたことであり、今の私達もしていることです。

「わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」イエス様が命じたこととは何か?いろいろありますが、代表的な2つのことだけを取り上げます。

まず、主の日に集まって礼拝を守ることが教会を建て上げることです。その起源は十戒の第4戒にあります。その戒めを守るとは6日間働いて日曜日は休みを取ることですが、日本は仕事を大切にする社会なので日曜日に休みを取ることには戦いがあります。仕事でなかなか日曜日に休めない状況はありますが何とかを時間を取って礼拝を守ることが必要です。大掛かりな講演会やコンサートをするのもいいですが、それよりもまず礼拝を守ることのほうが大切です。礼拝の時間を勝ち取ろうとする心がけが教会を建て上げるのです。次に、イエス様は十字架にかけられる前、弟子達と最後の食事をしたとき、パンを取って「取って食べなさい。これはわたしのからだです」と言い、また杯を取って「これは――罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」と言って聖餐を定め、イエス様が再び来られるまで守るようにと命じました。聖餐は私達が立つ土台はキリストの十字架であることを示し、もしそこから少しズレているなら正す役割があります。だから、聖餐を忠実に守り続けることが教会を建て上げるのです。

最後にイエス様はキリストの弟子として教会を建て上げる弟子達や今の私達にある祝福の約束を与えています。それは「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」ということです。教会とは関係なしに1人でいるときにもイエス様は信じる者に御霊としておられますが、世の終わりまでイエス様がともにいるというこの約束は基本的に教会に与えられたものです。

マタイ18:20「2人か3人がわたしの名において集まるところに、わたしはその中にいる」

1人ではなく2人以上がポイントです。2人以上いてイエス様の名において集まるとは何か?それは教会です。だから、このみことばは教会にイエス様がともにおられることを教えています。礼拝をするとき、そこにイエス様がおられ、聖徒の交わりをするとき、そこにイエス様がおられます。教会生活をするとはイエス様とともに歩むことなのです。

「世の終わりまで」これはイエス様が再臨してすべての生きている者と死んだ者をさばくときまで、この世に教会が存在する限り、イエス様は教会とともにおられることです。私達が召された後もイエス様は教会に続けておられ、聖徒たちを導き続けるのです。私達は短い生涯の間しか宣教はできませんが、私達が伝えたイエスキリストは世の終わりまで教会とともにおられ、その後は天国に招いて下さる凄いお方です。そのことを心に覚え、それを励ましとしながらキリストの福音を宣べ伝え、あらゆる国の人々をキリストの弟子とする働きを続けていきましょう。