マタイ6:10
“地でもなされる神のみこころ” 内田耕治師
私達はほとんどだれでも信仰と生活のギャップという問題を抱えています。イエス様を信じていても、みことばを読んでいないので神のみこころがよくわからないだけでなく、みことばをよく読んでいても、忙しい日常やこの世の要請に流されるとか罪の性質に振り回されることがあります。教会では一応、キリスト者らしく生活しますが、家に帰りプライベートな空間に入るとか、職場や学校などにいるとき、全くみことばが出て来なくてキリスト者らしい所はまるでなく、最近の流行や芸能人のゴシップやあの人この人の悪口ばかりが口から出て来てとか、ビジネスのことになると、人が全く変わってしまい、ひたすら金儲けに邁進してまるでお金が神様みたいな生き方をすることがあります。
また教会の活動さえ、この世の影響をもろに受けてひたすら信徒の数を追い求めてビジネスのように教会活動をすることがあります。しかも日々の生活に追われて目の前のことで精一杯であまり問題意識がないことがあります。日常生活の中で何が良くて、何が悪いと言うのではありません。日常生活全体で神のみこころを問うことがあまりにも少ないことが問題なのです。だからこそ「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈るのです。そのように祈れば、すぐに何がみこころなのか示されなくても、少なくとも“神が自分に与えられたみこころとは何だろうか”という問題意識を持てるからです。
次に「みこころが、地でも行われますように」という祈りは、一見、自分は何もしていないし、何も関わっていないのに、勝手にみこころが実現していくように見えますが、それは私達を通してみこころが行われるように祈ることです。私達が何もかもするのではありませんが、私達が主のみこころを悟り、それを担い、私達を通して主のみこころが実現するように祈ることです。それは首に縄をつけられて奴隷のように担うのではなく、みこころを成し遂げるために進んで担うことです。信仰がない人達は示されたことが自分の益にならなければ、担おうとしませんが、信仰のある私達はそれが自分に対する神のみこころだと分かれば、自分の益になるかならないかに関係なく神のみ栄えのために担うことができます。それがみこころを悟って進んで担うことです。
ただし信仰のある人達でも、人によってまだ幼子の信仰だとか、もう大人の信仰だとか違いがありますから主は担いきれないみこころを担わせることはありません。主は私達が何とか進んで担うことができるものを担わせようとします。だから「みこころが地でもなされるように」とは、“私達が担うことができるみこころを与えて、みこころを行わせてください”と祈ることです。私達には神のみこころを進んで担う完全な模範が与えられています。その模範とはイエスキリストです。主イエスは十字架という神のみこころを進んで担いました。イエス様は十字架にかかる前に何度もご自身が十字架にかかることを予告していました。またゲッセマネの祈りでは初め「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と言って十字架への恐れを露わにしましたが、最終的に「あなたが望まれるままになさってください」とか「あなたのみこころがなりますように」と祈って進んで十字架に向かいました。私達はこのイエス様にならって自分を通してみこころを成し遂げることを求めていくのです。
その際に、イエス様のように自分のいのちを捨てるまでは行かなくても、自分の何かをささげることが伴います。時間や労力や賜物をささげるとか、あるいは自分の殻を打ち破るとか、恐れを捨てて勇気を出すなど、ささげるものは様々ですが、ささげるべきものをささげることが必要です。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」また、ささげるべきものを惜しむことがないように祈る必要もあります。
最後に「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈っていると、みこころについてあることが分かってきます。それは天で行われることを考えれば、地で行うべきみこころが分かるということです。天では神から離れている人間がイエスキリストを通して神に立ち返ることを喜んでいます。ルカ15章の一匹の迷える子羊のたとえ話はその喜びをよく表しています。
「1人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人のためよりも大きな喜びが天にあるのです」
「1人の罪人が悔い改める」は神のみこころがどういうものか上手く表しています。たった1人でも人は神が造られた尊い存在だから、その1人のためにささげるべきものをささげることが、神のみこころです。この点がこの世のビジネスとは大いに異なります。この世のビジネスでは、10人、50人、100人のためなら時間や労力を払ってもいいけれども、たった1人のためにどうして犠牲を払うのか?そんなものは割に合わないと考えます。けれども、神のみこころは割に合わなくても、たった1人を大事にしてその1人のために犠牲を払って福音を伝え、その1人が悔い改めてキリストを通して神に立ち返ることを喜びとするのです。
この世にドップリ浸かり、目に前のことに振り回され、この世的な価値観の影響を受けている私達は、もしかしたら、1人が悔い改めることを喜ぶという神のみこころを知っていても、心の片隅に追いやってしまい、忘れかけているかもしれません。だから、私達の奉仕がこの世のビジネスにならないように天では1人の罪人が悔い改めることで大きな喜びが湧きあがることを思い出す必要があるのです。1人の罪人の尊さを心に留めながら「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と祈っていきましょう。