ヨシュア22:1-34、黙示録3:19-20
“あの人の問題は私達の問題です” 内田耕治師
最近はネットによって社会の分断化が進んでいます。「私はパウロにつく、私はアポロに、私はケファに」教会も分断化して1つにまとまることが難しい群れなることがあります。古今東西、社会でも国でも教会でもまた家族でも罪ある人間がすることですから分断化する弱さがあります。だから、私達はその弱さを十分自覚して分断化して人々が孤立することを避けるために交わりを築き、思いや問題を共有して1つにまとまることを目指す必要があります。
さてイスラエル人もその課題を目指しました。エジプトを出たイスラエル人は荒野で40年間生活しました。その頃、人々はみんなが同じマナを食べてみんなが荒野で耐乏生活をしてみんながモーセを通して主のみことばを聞いていました。モーセに反逆する者達はいたし他民族の偶像礼拝に惹かれる者達もいました。けれども、周囲に彼らの欲望をそそり誘惑するものは比較的に少なかったので、そういう環境に守られて彼らは同じ心で約束の地を目指していました。
けれども、約束の地に入りだすと状況は一変しました。荒野の時代と違って定住して土地という財産を獲得する過程でそれぞれの欲望が強くなり、誘惑が働き、自分の利益ばかり考えて他の人達のことをあまり考えなくなる時代に突入しようとしていました。彼らはフロンティア精神でまとまり手を携えて一緒に約束の地に向かうように見えます。けれども、それぞれが自分の利益だけを追求して他の人達を顧みることなく勝手なことをする根は約束の地に入る前からありました。だから主は、モーセを通してみんなで助け合って一緒に歩み、同じ思いになることの大切さを教えようとしました。
ヨルダン川の東にいたヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグを打ち破った後、モーセはたくさんの家畜を所有していたルべン族とガド族とマナセの半部族にヨルダン川の東のギルアデを他の部族に先駆けて与えました。けれども、他の部族がこれからヨルダン川を渡って西に行こうとしていた時、彼らが早々と戦線から離脱することは全体の一致を損ね、他の部族のやる気をなくさせる可能性があります。それでモーセは彼らに戦いに参加できる男達は全イスラエルの先頭に立ってヨルダン川を渡り、一緒に戦って約束の地を占領し、占領事業がすべて終わってからヨルダンの東に帰りなさいと命じました。その後、ヨシュアはその命令を彼らに行わせました。ヨシュア記1章から22章までの間がどれくらい期間なのか正確な年数はわかりませんが、かなりの期間、彼らは他のイスラエル人とともに生活し、戦い、占領事業を続けました。その後、約束の地の占領はほぼ終わり、ルべン人とガド人とマナセの半部族の兵士達はヨルダンの東側に帰ることになりました。そのとき彼らは、ヨルダン川のそばに遠くから見えるほどの大きな祭壇を築きました。
イスラエル人がこの祭壇を誤解したためにあわや戦いが始まるかもしれない状況になりました。けれども、かえってその騒動が両者を歩みよらせ主にあって1つであることを確認させる出来事になりました。ヨシュア22:21-31
ルべンやガドやマナセの人々は疑われても腹を立てたところが微塵もなく、どうして自分達が祭壇を造ったのか、そのわけを懇切丁寧に説明しました。彼らに主に反逆する意図はまったくないこと、また彼らと他のイスラエル人が1つであることを忘れないために祭壇を造ったことを語りました。一方、イスラエル人も彼らの説明をじっと聞いて満足し、問題は丸く治まりました。
ところで主にあって1つだということはキリストの体である教会にとっても大事な要素です。その一体感があるから、教会を建て上げ、成長させ、そしてきよさを守ることができます。ただし、その一体感は、綻びやすいものです。約束の地を獲得したイスラエル人は今日の箇所のような美しい証しを残しましたが、その一体感は士師記の時代になると、綻びてしまい、それぞれが勝手なことをやり始めました。私達にも同じような危険性がいつも付きまといます。
だからこそ聖書は綻びたらその都度その都度、悔い改めて本来のあり方に立ち返ることを教えています。黙示録3:19-20「熱心になって悔い改めなさい」自分達の交わりに綻びを感じるなら、その都度その都度、本来のあり方に立ち返りなさいということです。本来のあり方に立ち返るとは、イエス様を受け入れることです。個人個人はイエス様を信じていても、群れとしては綻びてしまいイエス様はいるけれども、その影が薄いことがあり得ます。だからイエス様は戸の外に立って叩いているのです。だれでもイエス様が戸をたたく音を聞いて、戸を開けるなら、イエス様はその人の家に入って食事をしてくださいます。そのために私達は戸を開けてイエス様を受け入れます。またイエス様を受け入れるとは、同じようにイエス様を信じるあの人やこの人を受け入れることです。あの人やこの人をなかなか受け入れられない。それが綻びの原因だからです。そのために、ルべン、ガド、マナセの人々と他のイスラエル人の関係は私達にとって良い教訓となります。彼らは互いに協力して占領事業を進めてきましたが、実際のところ彼らの関係も綻びていました。けれども、ルべン、ガド、マナセの人々は疑われても腹を立てずに懇切丁寧に説明し、また他のイスラエル人は焦らず立ち止って相手の説明をよく聞きました。そして互いに理解し受け入れることで「今日、私たちは主が私たちの中におられることを知った」と言って主にあって1つであることを確認することができました。
それこそ、黙示録が言うようにイエス様が入って来られてともに食事をして下さることです。戸を叩くイエス様を受け入れるとは、あの人やこの人を受け入れることであり、あの人やこの人を受け入れるとは、相手に懇切丁寧に説明したり、あるいは相手の言うことをよく聞くことなのです。気ままのおしゃべりすることは得意でも、懇切丁寧に説明することは苦手だとか、おしゃべりすることはよくしても、じっくり聞くことはあまりしないと言うことがあります。けれども、綻んだ交わりを回復させ、主にあって1つという一体感を築き上げるには、懇切丁寧に説明したり、よく聞いたりすることが必要なのです。そのように出来るように主に求めて行きましょう。