マタイ6:11
“日ごとの糧をお与えください” 内田耕治師
主の祈りは2つの部分に分けることができます。第一部が神のための祈り、第二部が人のための祈りです。日ごとの糧を求める祈りは第二部の最初の祈りです。食物という非常に日常的なもののために祈りますから第一部の御名や御国やみこころのために祈るのと比べて格段に祈りやすいと言えます。けれども、よほど食糧が不足して飢餓の状態になれば祈るでしょうが、今は食べ物が満たされている時代なので祈祷会などで日ごとの糧のためにわざわざ祈ることはありません。
けれども、主の祈りでは互いに赦し合うことや試みから守られることや悪から救い出されることに、先んじて“日ごとの糧”を求める祈りをしますから、その祈りを大切にしています。どうしてか?それは、日ごとの糧が私達のいのちに関わることだからです。食べ物がたくさんある現在はあまり意識しないかもしれませんが、もし食べ物がなかったら私達は生きていくことができません。
私達は食べることによって生かされています。そして食べ物は主なる神が私達に与えて下さるものです。詩篇145:15「――あなたは、時にかなって彼らに食物を与えられます」主の祈りで食べ物のために祈るとは、食べ物を与えて下さる主なる神に生かされているという事実を認め、そうして下さる主に感謝し、崇めていくことです。だれでも食べていくために精一杯働かなくてはなりません。けれども必死に働いているうちに私達は自分の努力で食べ、自分の頑張りで生きていると思い込み、いつの間にやら努力する自分の力や頑張りを誇り、崇めるようになってしまいます。目に見える像がなくても、それは偶像礼拝です。だから日ごとの糧のために祈るのは、私達が自分の力ではなく主に生かされていることを意識し、自分を生かして下さる主に感謝し、主を崇めるためなのです。
主の祈りは「糧を与えてください」だけでなく「日ごとの糧を今日も」と祈ります。日ごととは、今のこの時ということではなく、この時に続く次の時ということです。たとえば、朝この祈りをすれば、次の時とは昼食や夕食であり、夜祈るとすれば明日の糧のことです。すなわち、日ごとの糧のために祈るとは、次に来る時、つまり今日や明日のいのちを支える糧のために祈ることです。その背後には今日明日のいのちがどうなるか?わからないという現実があります。私達は、その現実を忘れています。けれども、それはだれもが認めざるを得ないことです。意識しなくても、死は私達のすぐそばにあります。だから、いつ死んでもおかしくない私達に、新しいいのちを与えて支えてくださいと祈ります。それが日ごとの糧を求める祈りです。その祈りをすることで私達は、自分が主に生かされていることがよくわかるようになり、生かして下さる主に感謝し、ますます主を崇めるようになるのです。
ところで、私達には肉体のいのちだけでなく霊的ないのちもあります。そして私達の霊的ないのちを生かす糧もあり、聖書はそれが何であるか教えています。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る1つ1つのことばで生きる」これは肉体ではなく霊的いのちのことを言っています。霊的ないのちを生かす糧とは神の口から出る1つ1つのことば、つまり神のみことばです。デイリーブレッドという言葉はここから来ています。ヨハネの福音書はさらに一歩踏み込んで私達の霊的いのちを生かす神のことばとは突き詰めるとイエスキリストご自身であると教えています。ヨハネ6章でイエス様は5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人々を満腹させる奇跡的なみわざを行いました。
その後、群衆はパンを与えてくれたイエス様から、もっとパンが欲しいと思ってイエス様を王様にしようとしてを追いかけました。けれども、イエス様は肉体を生かすパンはそこそこにして、彼らの霊的いのちを生かすパンを与えようとしていました。「あなたがたはわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい」ヨハネ6:26-27
その後イエス様はその食べ物とはイエス様ご自身であると語りました。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ヨハネ6:35 イエス様という霊的いのちを生かす糧をいただく場合、私達にはあることが必要です。それは、自分が罪のゆえに死んでいることを知ることです。主の祈りの「日ごとの糧」は、私達が死と隣り合わせであることを知らせます。けれども、いのちのパンであるイエス様はさらに一歩踏み込んで私達がまさに霊的に死んでいることを知らせます。
私達は罪のゆえに霊的に死んでいるのです。それを認める者だけがイエス様のパンを食べることによって霊的に生きることができます。「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。」エペソ2:4-5
だから、罪のゆえに霊的に死んでいることを認められるのは幸いなことです。一般的に罪や死を言われることは、嬉しくないことですが、イエス様と聖書のみことばによってそれらを率直に認め、受け入れることができることは祝福です。なぜなら、そういう人がイエス様のパンによって霊的に生かされて永遠のいのちを得ることができるからです。私達は肉体的には死と隣り合わせであり、霊的には死んでいますが、そんな私達を見捨てないでキリストによって生かしてくださる神の恵みを覚えて、感謝し、主の御名を崇めて行きましょう。