士師記2:6-3:6
“主を知らない世代を哀れむ主” 内田耕治師
士師記の前にヨシュア記があります。ヨシュア記はイスラエル人が約束の地の占領を進めるフロンティアの時代でした。民全体に約束の地を占領するという目標があり、ヨシュアという指導者がいてまとまりがありました。けれども、ヨシュアが召され、彼とともにあった長老達も召された後、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない別の世代が起こりました。
そうなったのは前の世代に問題がありました。主はイスラエル人に異邦の民の神々はあなたがたの罠となるから彼らを追い出しなさいと言ったのに彼らは追い出さないでそのままにする中途半端なことをし、さらにボキムで主の使いがそのことを責めて厳しい警告を与えても、声をあげて泣いたものの、そのあり方を変えない、どうしようもない人々だからです。その結果、イスラエル人は異邦の民の神々に惑わされてその罠に嵌り、その神々を拝むようになり、それが主の怒りを引き起こし、しばしば異邦の民に侵略される災いに遭うようになりました。けれども、主はそんな彼らを哀れんでギデオン、サムソン、エフタなどの“さばきつかさ”を遣わして助け出し、彼らを主に立ち返らせるようにしました。どうしようもない人々でも、彼らは主に選ばれた民なのです。彼らが主に選ばれた民である証拠が3つあります。
1つ目は、主の怒りです。イスラエル人が主から離れて他の神々に顔を向けると、主の怒りが燃え上がり、災いが降りかかってイスラエル人は苦しめられますが、主から離れると主の怒りが燃え上がること自体が彼らが主に選ばれた民だという証拠です。私達も同じです。主は私達を子として選び、主は私達の天の父だから、へブル12章は主の怒りと懲らしめを受け入れることを教えています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」
2つ目に“さばきつかさ”が遣わされたことが主に選ばれた証拠です。“さばきつかさ”は侵略してきた敵に対してイスラエル人を立ち上がらせて戦わせ、試練から救い出しましたが、それ以上に大事なことがあります。それは主から離れたイスラエル人を主に立ち返らせることです。今の私達にも、武器を取って戦うことはしませんが“さばきつかさ”がいます。それは、もし私達が主から離れて信仰が落ち込んだときに、私達を心配して、まず祈ることから始めて声をかけ、誘い、みことばを伝えてーーー見捨てないで関わってくれる人達が“さばきつかさ”です。そして彼らがいることが私達が主に選ばれている証拠です。また私達は、私達自身がある人達のために祈り、声をかけ、みことばを伝えて関わる“さばきつかさ”になることを、主は願っておられます。このことも是非心に留めていただければ幸いです。
3つ目に、イスラエル人を試みる異邦の民が置かれたこと自体が彼らが選びの民である証拠です。占領事業を始めた頃、主のみこころは“異邦の民はあなたがたの罠となるから追い出しなさい”でした。けれどもイスラエル人は従わなかったので異邦の民はそのまま約束の地に住み続けることになり、約束の地はイスラエル人を主から引き離す罠がいっぱいある危険な地となりました。けれども、主は約束の地をそんな状態にしてしまったイスラエル人を見捨てることなく、その後も期待し、その状態に合わせて新しいみこころを与えました。「わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残しておいたいかなる異邦の民も、彼らの前から追い払わない。これは、先祖たちが守ったように、彼らも主の道を守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである」
このみことばは2つのことを教えています。
1つは約束の地を任せたことです。人を使う立場になると、部下がキチンとやってくれるかどうかという一抹の不安を抱きながら仕事を任せるものです。でも、“もう信用しない、お払い箱だ”ではいつまで経っても人を使うことができないし人材を育てることもできません。だから信用して任せます。子育ても同じです。若気の至りでたくさん失敗をしてきたけれども大目に見てもらえるから人は育つのです。同じように主は、みこころ通りにしなかったイスラエル人を大目に見て、約束の地を任せたのです。選んだ彼らを神の民として育てる責任があったからです。私達も同じです。主は私達の出来が悪くても捨てることはありません。私達を選んだ以上、神の民として育てる責任があるからです。だから、私達は安心して任されたものを引き受けて歩んでいけばよいのです。
もう1つは任されているとともに試されていることです。「主の道を守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである」主は見捨てないけれどもイスラエル人をそばにいる異邦の民によって試しました。平和な関係を持ちながら付き合うけれども信仰のことでは妥協しないで他の神々の罠にかかることがないように、いつも気を付けることを試されたのです。それは異邦の民を追い払うよりも大変なことです。より苦労があります。より忍耐が必要です。イスラエルの歴史を見ると、しばしば他の神々の罠にかかってあまり上手く行かなかったことがわかりますが、主はイスラエル人にそうするようにさせました。それは主が選んだ彼らを育てるためでした。
今の私達も同じです。特に偶像礼拝が盛んな日本で生活する私達は全く同じです。私達もいろんな人達と平和な関係を持ちながら共に生きようとしますが、信仰のことでは妥協しないで他の神々の罠にかからないように気を付けることを試されています。それは主が選んだ私達を育てるためです。人々と平和な関係を持ちながら共に生きるけれども、信仰のことでは妥協しないで気をつけて他の神々とは一線を引く生き方は、静かでも大変なことです。忍耐が必要です、謙遜さと柔和さが必要です。知恵も必要です。でも、そのために私達は選ばれました。そこで大事なことは主が私達を選んでくださった恵みを覚えて行くことです。エペソ1章「神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる傷のない者にしようとされたのです。」私達は主にあって選ばれたということにさらに目を開いて主にあって選ばれた者らしい歩みを目指していきましょう。