マタイ6:13
“目を覚まして祈りなさい” 内田耕治師
マタイ6:13には2つの部分があります。1つは「試みにあわせないでください」であり、もう1つは「悪からお救いください」です。2つとも自分が罪を犯さないように守ってくださいという祈りです。主の祈りの中で「試みにあわせないで悪からお救いください」は他と比べるとあまり祈らないものです。私達がよく祈る宣教や奉仕や仕事や健康や癒しと比べてもあまり祈らない祈りです。
けれども、この祈りは現代社会においては非常に大切な祈りです。なぜなら昔と比べると現代社会は格段に誘惑が多いからです。いつの時代にも誘惑はありましたが、いろんな意味で現代は誘惑が飛躍的に増大しています。便利ですが、こんなに誘惑が溢れている時代はかつてありませんでした。そして誘惑が多いわりに私達は無防備です。無防備ですから知らず知らずのうちに、影響を受けて気がついてみたら誘惑の虜になって変なことになるとか、信仰が変質してしまうことがあります。だから私達は「試みにあわせないで悪からお救いください」と祈る必要があります。ところで「試みにあわせず悪からお救いください」とは目を覚ますための祈りです。たとえて言うと、私達の信仰生活は居眠りをして敵を見ないで戦いをするようなあり方になりやすいのです。敵は私達がよく見えていて、私達は敵が見えていない。こんな戦いをしたら私達の負けは決まっています。敵に負けないためには私達が目を覚まして冷静に敵を見ることが必要です。
また目を覚ましていなさいには「いつも」という言葉が付きます。いつも目を覚ましていることが必要です。それは主の再臨を待つことと似ています。イエス様は何年何月の何日頃に来るという予告はまったくなしに、予期していない日の思いがけない時にやって来ます。誘惑も再臨と同じように何の前触れもなしに思いがけない時にやってきます。あるいは誘惑が密かに進んで私達は誘惑だと気づかなくて、気がついてみたら手遅れで誘惑にドップリ嵌って身動きが取れないのです。だから、いつも目を覚まして祈ることが必要です。「目を覚ましている」とはいろんな意味で自分の弱さを認めていくことです。信仰とは自分の弱さを認めながら、その弱さをカバーして強くしてくださる主の力を信じることです。だから私達は弱さを抱える者でありながら主によって強い者として大胆になることができます。
「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからであると言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」2コリント12:9
けれども、もし私達が自分の弱さを無視して自分はもともと強いと思い込むとしたら、それは自分はもともと強いという幻想を抱いて高慢になることです。それはちょうど、装備や計画を十分にして登るべき山を甘く見て遭難するようなもので、試みや悪に対して非常に弱くなり、大失敗を犯すことになります。だから目を覚ますとは、高慢を捨てて自分の弱さを見つめ、主の力によって何とか守られるように祈ることなのです。ルカ22章で「主よ、あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言って、大胆なことを言うペテロに対して、イエス様は「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。」と言ってペテロの弱さを指摘しながら、そんなペテロのために「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言いました。同じように私達は目を覚まして自分の弱さを認めて祈る必要があるのです。
主の祈りでは試みや悪から守られるようにと抽象的な言い方をしていますが、主の祈りを基本にして、もう少し具体的にたとえば、“欲望を自制できるようにしてください”とか“すぐカッとなることから守ってください”と具体的に祈る必要があります。具体的に発展させて祈ることによって私達は目を覚まし、謙遜に自分の弱さを認めて主の力によって試みや悪から守られるのです。人から“あなたは女性問題や金銭問題や殺人を起こす危険性がある”と言われたら頭に来て反発します。私達は人の前ではなかなか謙遜になれないのです。けれども、個人的な祈りの中では”とんでもない罪を犯す可能性がある者だから助けてください”と謙遜に弱さを主の前に認めて祈ることができます。具体的に発展させて祈ったらいいのです。
最後に「私たちを試みにあわせないで悪からお救いください」という祈りは、「私たち」とあるように主にある兄弟姉妹とともに祈る教会的な祈りでもあります。それは互いに目を覚まして罪を犯すことがないように互いに祈り合うことです。私達は良い奉仕ができるように、良い仕事ができるように、また良い成果が得られるように“頑張りなさい”と励ますことはよくします。励ますこともいいですが、それだけでなく互いに罪を犯すことがないように祈り合うことも必要です。週1回、礼拝の主の祈りでお題目のように唱えるだけでなく、これを基本として互いに祈り合うために、この祈りはあります。その際に個人的な祈りと同じように、ある程度、具体的に発展させて祈ることが必要です。それは私達の抱える弱さをさらけ出すことです。そして私達の弱さをさらけ出して祈り合うには、弱さをさらけ出せるような交わりが必要です。弱さを出したり、否定的なことを言った途端にさばかれるようないわゆる聖なる交わりではそういう祈りはできません。だから、裁かない、何でも受け入れる交わりを築き上げることが必要です。
そのような交わりがあることによって「私たちを試みにあわせず悪からお救いください」という祈りを具体的に発展させることができるのです。互いに弱さを受け入れ合い、目を覚まして「試みにあわせず悪からお救いください」を具体的に祈れる交わりを築き上げていけたら幸いです。