士師記3:12-30
“右手が不自由な勇士” 内田耕治師
最初の士師であるオテニエルが死ぬと、イスラエル人は再び主の目に悪であることを行い、主のさばきが下され、モアブの王エグロンに支配されました。でも、イスラエル人が主に叫び求めると、1人の救助者エフデが起こされました。別の見方をすると、エフデはモアブの王エグロンを騙して殺した暗殺者ですが、そうでもしなければモアブ人を恐れてビクビクし何もしないイスラエル人を解放できなかったのです。平和と民主主義の現代的感覚でエフデを見ることは出来ません。日本語の聖書も英語の聖書もエフデは「左利き」と訳していますが、原典のへブル語では「右手が不自由」です。当時、右手が不自由なことは戦いでは大きなハンディなのでエフデは戦いに不向きな人でした。けれども2コリント12章「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」とあるようにエフデは右手が不自由な弱さがかえって主に用いられてイスラエルの救助者となりました。
その頃、モアブの支配下にあるイスラエルはモアブの王に対して貢物を納める必要があり、エフデは貢物をエグロンのところに届ける役目が与えられました。彼は“これこそエグロンに近づいて討ち取る千載一遇のチャンスだ”と示され、そのために計画を立てて周到な準備を始めました。まず短い両刃の剣を作りました。それを右ももの上に巻き付けて着物をかけて隠しエグロンに近づきました。貢物をエグロンに渡してから彼だけが引き返して来て「王様、あなたに秘密のお知らせがあります」と言うと、エグロンは「今は言うな」と言ってそばにいる者達を出て行かせ、屋上にある王様専用の涼しい部屋にたった1人でいて、エフデを招きました。右手が不自由でどう見ても弱そうに見えたからエグロンは油断したと考えられます。「柄も刃と一緒に入ってしまった。彼が剣を王の腹から抜かなかったので、脂肪が刃をふさいでしまった」剣を抜くのにもたもたしているときにだれかが来たら、それこそ命取りです。また血のついた剣を持っていれば怪しまれ、もし戦いになったら、短い剣ではとても勝ち目はありません。だからエフデは初めから刺した剣をそのまま王の腹に残すつもりでした。彼は小窓から出ましたが、一目散に逃げるのではなく、まず廊下に出て行き、屋上の部屋の戸を閉め、かんぬきを掛けてから出て行きました。そのおかげで王のしもべ達は“王は涼み部屋で用をたしている”と思い込んでそのままにしていたので彼は逃げる時間を稼ぐことができました。時間を稼ぐことにはある大事な目的がありました。それはモアブ人を恐れてビクビクするイスラエル人を集めてモアブとの戦いのために立ち上がらせることでした。「私の後について来なさい。主があなたがたの敵モアブ人を、あなたがたの手に渡されたから」
右手が不自由なエフデがエグロンを討ち取ったことはビクビクして何もしないイスラエル人に勇気を与え、本来の力を発揮させ、1万人のモアブ人を討ち取らせ、その後、80年の間、平和が続きました。現代でもモアブ人を恐れて何もしなかったイスラエル人のように、何も言わないで黙っていたら問題は続きますが、エフデのようにもし1人がその問題を指摘し正しいことを言い始めたら、初めは反対があっても、そのうちに人々はその1人が言うことに耳を傾け、みんなに広がり共鳴する者達が起こされて新しい動きが始まります。たとえその1人は小さな存在でも、その1人に賛同する者達が起こされて大きなうねりをもたらすのです。だから小さくてもエフデのような1人が現れることは大事なことです。
ハンセン病患者の意味のない隔離政策をもたらしたライ予防法を廃止させたのも、理不尽な断種手術をもたらした優生保護法を廃止させたのも、初めはごく少数の人達がその問題を指摘して正しいことを言ったからです。だれも何も言わず黙って同じことを続けるだけでは悪法はそのまま残されてしまいます。エフデのように少数の人達が現れるのは大事なことです。
教会も同じです。イエス様が「収穫は多いが働き手が少ない。だから、収穫の主に収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言われたように、教会にはもっと働き手が必要でありながら、働き手が少ないという現実があります。どうして少ないのかというと、自分は、賜物も能力もない者だから奉仕など、とてもできないと決め込んでいたり、賜物や能力があるのに出し惜しみしているからです。それはモアブ人を恐れてビクビクしていたイスラエル人のようなものです。けれども、そんな中で自分に出来ることなら何でもしてみようと言う人が1人でも起こされるならば、その信仰はその人自身を成長させるとともに他の人達の励ましとなり、1人のエフデによって多くのイスラエル人が恐れを捨てて立ち上がったように、“私も主のために何かやろう、何か奉仕しよう”と言う人達が起こされるようになります。
だから、主は1人のエフデが起こされることを祈っています。また私達も1人のエフデが起こされることを祈っています。そして忘れてはならないのは、1人のエフデとはどこかのだれかではなく、私達だということです。“エフデさん、来てください”と祈るだけではあまり意味がありません。まず私達1人1人がエフデとなるべき存在です。そのことを覚えていただければ幸いです。