マタイ6:12

「神に対する負い目、それが罪です。」  内田耕治師

 

式文の主の祈りは「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく我らの罪をもゆるしたまえ」です。
「負い目」でも「罪」でも違いはありませんが、厳密に考えると少し違いがあります。罪とは本来のあり方から違反した行為に焦点を当て、負い目は違反した行為によってだれかと正常ではない関係にあることに焦点を当てた言い方です。そして主の祈りの今日の箇所は、正常でない関係を正常にもどすための祈りです。

負い目は借金に例えることができます。ある人に対して負い目があるとは、その人にまだ返していない借金があるようなものです。でも、その借金を返せば、その人と対等で正常な関係になり、負い目がなくなります。もう1つ解決する方法があります。それは貸した者が借金を免除してあげることです。それは貸した人の哀れみによって特別に行われることですが、借金を免除していただければ負い目はなくなります。

金銭的な問題はキチンと返すべきものを返せば、それでキレイに終わりますが、人間関係のことは何か償いをしても、簡単に解決できるのではなく、互いのわだかまりや負い目が簡単になくなるわけではありません。けれども、借金を免除するのと同じように、相手を責めて償いを求める立場にある者が、償いを免除することによって正常な関係を回復し、和解することが出来ます。それは赦すことです。主の祈りは、赦すことについて2つのことを教えています。

1つが「私の負い目を赦してください」と神に赦しを願うことです。私達は人に対する負い目だけでなく、神に対する負い目があります。なぜなら神との関係と人々との関係は密接に結びついているからです。1ヨハネ4章に「神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することは出来ません」神を愛することと、人々を愛することは密接につながっています。すべての人と上手く行くわけではない私達はだれかと上手く行かないですから神に対しても負い目があります。主の祈りは、まず神に対する負い目を赦してもらう祈りをします。

次に、主の祈りは、神に赦しを願うことと同時に私達があの人やこの人を赦すことを教えています。
「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」私達に負い目のある人達とは、私達に対して借金がある人達に例えることができます。私達は、私達に借金のある人達に“返しなさい”と執拗に迫りますが、彼らは返すことができません。彼らの私達に対する負い目は続き、また私達の彼らに対する不満や苛立ちは続きます。けれども、聖書はそういう不満や苛立ちを乗り越えて赦すことを教えています。マタイ18章の赦すことを教えた有名なたとえ話があります。王に対して1万タラントの負債がある家来がいました。彼は王様からその負債を返済するように言われましたが、彼は返済できないと、王様は彼に“あなたもあなたの家族も身売りして返しなさい”と言いました。けれども、その家来はひれ伏して“もう少し待ってください。”と必死にお願いしました。すると王様はひれ伏す家来を見てかわいそうに思い、負債を全部免除してやりました。ところがその家来は、自分に対して1デナリの借金がある仲間に出会ったとき、その人を捕まえて首を絞めて“借金を返せ”と言いました。その仲間はひれ伏して“もう少し待ってください”と言いましたが、彼は承知しないで、その仲間を借金を返すまで牢に投げ込みました。そのことを聞いた王様は心を痛め、彼を呼びつけて“おまえは悪い家来だ、私がおまえを哀れんでやったように、おまえも自分の仲間を哀れんでやるべきではなかったのか!”と怒って彼を牢屋に放り込みました。

このたとえ話の言いたいことは、王様が家来の借金を免除したように神はすでに私達を赦しています。だから、私達は、自分に対して負い目のある人達を赦すべきだということです。私達の罪は、イエスキリストが十字架の血によって私達の罪の代価を支払って下さいましたから、赦されています。私達は王様に哀れみによって1万タラントの借金を免除していただいた家来のような者です。だから私達も哀れみの心をもって、私達に対して負い目のある人達を赦す必要があるのです。

けれども、私達はあのたとえ話の家来のように自分に負い目のある人をすんなり赦せないことがあります。だからこそ主の祈りは、私達が、私達の神に対する負い目を赦していただくことと、また私達が、自分に対して負い目のある人を赦すことの両方を教えています。私はかつて若くて聖書をあまり知らない頃、主の祈りを見て“私達はイエス様の血によってすべての罪を赦されたのに、どうしてまた罪が赦されるように祈るのか?”と疑問に思ったことがありました。けれども、それは自分の罪の現実がわかっていないことから来る疑問です。私達はなかなか人を赦すことができず神に対して負い目を貯めこんでいます。それが私達の罪の現実です。

「私たちも、私たちに負い目のある人達を赦します」もしこのみことばの意味するところを真面目に考えるならば、「-――赦します」と言いながら赦していない現実に気づくはずです。時には憎しみに心が支配されて、赦すことと全く反対のことをしている自分に気づき辛い思いをすることがあります。戦争の時はそうなります。また私達は何でも上手く行くとき、自惚れて神に対する負い目を忘れて“自分は良い人間だ”と思ってしまうことがあります。だから「私たちも、私たちに負い目のある人達を赦します」と言って実際は赦していない罪の現実に気づく必要があるのです。
そうすることによって「私たちの負い目をお赦しください」と神に赦しを願う祈りが分かって来るのです。