士師記6:1-27
“あなたのその力で行きなさい” 内田耕治師
ミディアン人の大軍はイスラエル人の居住地を荒らして食糧や家畜を奪って行きましたが、イスラエル人はなすすべがなく、ただミディアン人を恐れて山々にある洞窟や洞穴や要害に隠れていました。イスラエル人が主に助けを叫び求めると、主は1人の預言者を遣わし、主から離れて偶像礼拝に陥った彼らの罪を指摘しました。けれども、彼らは悔い改めて主に立ち返ることなく偶像礼拝を続け、ミディアン人を恐れてビクビクしていました。ギデオンも同じような状態でした。けれども主はそんなギデオンをイスラエルを救い出す者として選びました。
主の使いはギデオンに「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる」とか「行け、あなたのその力で。」とか「あなたは1人を討つようにミディアン人を討つ。」と何度も語りかけましたが、ギデオンの口から出て来たことは「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。」とか「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか」という呟きばかりでした。けれども、ギデオンは主の使いの要請を完全に拒否したのではなく“できれば、そうしたいのだが”という気持ちがありました。それは「主がともにおられる」という“しるし”を求めたことに現れています。ギデオンは“主がともにおられるなら立ち上がるが、そうでなければ立ち上がらない”つまり、目に見えない主がともにおられ、事を成し遂げて下さることを信じきれない弱さがありました。でも、それは裏を返せば、主がともにおられることが分かれば立ち上がるということでもあります。だから彼は「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるという“しるし”を、私に見せてください。どうか、私が戻って来るまでここを離れないでください。贈り物を持ってきて、御前に備えますので」と言って“しるし”を求めました。すると主は「あなたが戻って来るまで、ここにいよう」と言って“しるし”を求めるギデオンを受け入れました。その後、その通りに不思議なしるしとみことばがギデオンに与えられました。“しるし”とは主の使いが手にしていた杖の先を伸ばして肉と種なしパンに触れると、火が岩から燃え上がり、肉と種なしパンを焼き尽くし、主の使いは姿を消したことです。それによってギデオンは自分に語りかけたお方が本当に主の使いであることが分かりました。
また主はしるしだけでなく、みことばも与えました。当時の人々は主を見たら必ず死んでしまうという考え方がありました。だから、主の使いを見たギデオンは“自分は死んでしまう”と恐れました。けれども、主の使いは恐れるギデオンに「安心せよ、恐れるな、あなたは死なない」というみことばを与えて安心させたので、ギデオンは主がともにおられるという確信を得て、その場所をアドナイ・シャロム“主は平安”と名付けました。しるしとみことばを与えられたギデオンは主のために立ち上がる準備が整いました。すると主は、ギデオンに身近で最も基本的なことをさせました。それが父が所有していた偶像を壊し、主にいけにえを献げることでした。昔、礼拝とはいけにえを献げることでしたから、ギデオンが動物のいけにえを献げたことは主を礼拝したことでした。その頃、イスラエル人は主なる神を捨てて偶像の神々を拝むようになって主なる神から離れ、それが原因でイスラエルは弱体化し、ミディアン人の侵略を受けていました。だから主はまず偶像を排除して主を礼拝するという最も基本的なことを、自分の父という最も身近な所から始めさせました。現代の私達もギデオンのように偶像を壊すことはしなくても偶像に手を合わせないことによって偶像を排除し、子羊キリストがすでに献げられたのでギデオンのように動物のいけにえを献げませんが、主を賛美し、祈り、みことばを聞くことで主を礼拝しています。
ギデオンは主に従って父親の偶像を壊し、主にいけにえを献げましたが、彼は人目を恐れてそのことを夜、行いました。このことをどう見るか? 3つの見方が考えられます。
1つ目は“ギデオンは難しい状況だったから夜やらざるを得なかった、彼はよくやった”という好意的な見方です。
2つ目は“夜コソコソやってやっぱりギデオンは臆病者だ”という厳しい見方です。律法的な人はそのような見方をします。好意的か見方にしても厳しい見方にしてもギデオンという人を見ています。
けれども、聖書は3つ目の見方を教えています。それは夜コソコソやろうと昼間どうどうとやろうと、神がギデオンを立ち上がらせたこと自体に目を留め、神が弱さを抱えるギデオンを見捨てることなく用いて下さったことに注目することです。
この3つ目の見方を身につけるようになると、私達は自分や人を見る目が変わります。まず3つ目の見方は私達が自分を律法的に見過ぎることから解放してくれます。私達は人だけでなく自分をさばきます。自分をさばいて自分はダメだと思い込んで希望を失うことが案外あります。けれども、主なる神が弱さをかかえる私達を見捨てることなく用いてくださることが分かれば自分をさばくことから解放されます。そうすれば、希望を持ち、自分の可能性を信じて人生を歩めるようになります。また自分をさばくことから解放されたら人をさばくことからも解放されます。なぜなら、神は弱さを抱える自分だけでなく、同じように弱さを抱える他の人達も見捨てず神の栄光のために用いて下さるお方だからです。すなわち、自分だけでなく、あの人もこの人もギデオンのように主に用いていただけると思えるようになるのです。このギデオンのお話から私達は、弱さを抱える私達を見捨てず神の栄光のために用いて下さる神の恵みを学ぶことが出来、それは私達に希望や励ましを与えます。だからギデオンの物語は多くの人々に親しまれているのです。