マタイ6:16-18

“明るい顔でする断食”  内田耕治師

 

仏教では一般信徒はしなくても修行僧が断食を含んだ荒行を行うことがあります。イスラム教では世界のムスリムがいっせいに行うラマダンという断食の月があります。ユダヤ教は旧約聖書にモーセやサムエルやダビデやイスラエル人が断食したとか、ゼカリヤ書に年4回の断食が定められたとかの記述があります。その後、断食の習慣が根付いてきて、パリサイ人は週2回断食をする習慣があり、ヨハネの弟子達もそれにならって断食しました。その後のユダヤ教ではヨム・キプルと言われる贖罪の日など特定の日に断食をすることが定められました。

キリスト教ではイエス様が公生涯を始めるとき荒野で40日40夜の断食をしましたが、そうしたイエス様は弟子達に断食を積極的に勧めたわけではありません。そのためにユダヤ人達に批判されました。また初代教会では、断食を守るべき掟として定めてはいなかったですが、断食する習慣はありました。今も少しですが、断食する人達がいます。

イエス様は断食するのはいいけれども、そのやり方に注意しなさいと教えています。当時の背景があります。当時のイスラエルは現代とは全然違う宗教社会で、宗教家は宗教儀式や掟や習慣をキチンと守ることで自分の敬虔さを誇示しようとしました。断食していることを人々に気づいてもらうためにすきっ腹を我慢するような暗い顔をして“信仰熱心なお方ですね”と言ってくれるのを期待していたのです。人から報いを得るための偽善的な断食です。だからイエス様は隠れたところにおられる父なる神が見て下さる断食を教えました。断食とは人が自らを戒めるものです。自らを戒めるとは、主の前に悔い改めてへりくだることです。私達がそういう心になるなら、それが神の認める断食です。けれども、人々がほめてくれることを求めるようでは、反対に思い上がって高慢になってしまいます。だからイエス様は断食していることが人に知られないように頭に油を塗り、顔を洗って明るい顔で断食しなさいと教えたのです。

現代はイエス様の時代と違って世俗社会ですから私達が断食をしたところで人々はまったく無関心です。さらに礼拝を守るとか祈るとかの信仰生活についても、人々は至って無関心です。宣教のためにはもう少し関心を持ってほしいと思いますが、関心を持たれず、ほめる人がいないことは幸いなことです。なぜなら、ひたすら主なる神が喜ぶ信仰生活ができるからです。それは私達にとって幸いなことです。その幸いを幸いだとよくわかって信仰生活に励んだらいいと思います。

次に神が認める断食とは、自らを戒めるだけで終わるのではなく良い実を生み出します。主の前に悔い改めるならば、悔い改めの実を結ぶことができ、へりくだることは良い行いを生み出すのです。断食と言うと、主の前に自らを戒めてますます敬虔な人になるというイメージがありますが、それだけではないのです。断食の本質を考えるとそれが分かります。断食とは何か? 食べるものをしばらくの間、遠ざけて貧しくて食べられない人達と同じ立場に自分を置くことです。だから、断食をすることで自分の贅沢を悔い改め、貧しくて食べられない人達のことを思いやるようになります。人々への思いやりを持てるようになれば、次に出て来るものは自分に出来ることをして貧しい人達や苦難にある人達を助けることです。それが断食の生み出す良い実です。イザヤ58:7-8には断食が生み出す良い実が書いてあります。私達に比較的出来そうなことと私達には出来そうもないことがあります。

「飢えた者にあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見てこれを着せ、あなたの肉親を顧みる」

これらのことを全部完全に出来るとは言えませんが、その中のいくつかは出来るのではないでしょうか。主が私達に願うのは、私達が自らを戒めることで“自分でも自分達でも、これができるではないか、あれができるではないか”と思えるようになることです。そして父なる神は、そう思えるようになって何かしようとする私達を、隠れたところでご覧になって喜び、ますますそう出来るように助けて下さいます。私達には出来そうもないこととは「悪の束縛を解き、くびきの縄目をほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。」です。貧しい人達を思いやるようになると、その貧しさは社会的な束縛から来ていることがわかり、そういう束縛で虐げられた人達を本当に解放するには社会の問題に取り組まざるを得なくなります。それはアメリカの奴隷解放宣言や、黒人の公民権運動や、大昔のイスラエル人の出エジプトです。そういうことは話が大き過ぎて私達の手にあまることです。また社会活動家達がいろんな働きをしています。貧しく虐げられた人達をとことんまで思いやれば、そこまで考えるようになるのです。けれども、それはだれもが出来ることではありません。

ところで、人間は社会的な束縛だけでなく、もっと根深い束縛によって虐げられています。その束縛は人間の霊的な問題で、リンカーン大統領も、キング牧師もモーセも、どうすることもできません。その束縛によって人はだれでも滅びゆく存在です。その束縛とは私達のうちにある罪です。人間はだれでも罪に束縛されて滅びの道を歩んでいます。その束縛については、私達はさらにお手上げで何もすることができません。けれども、その罪のために十字架にかかり尊い血を流して下さったイエスキリストが、その罪の束縛から解放してくださいます。そして罪という霊的束縛に縛られて虐げられた多くの人々を思いやり、その束縛から解放するイエスキリストを考え、イエスキリストを宣べ伝えるようになることを父なる神は私達に期待し求めています。そうなれば、隠れたところで見ておられる父なる神は、私達に報いて下さいます。断食してもしなくても、そうなることが私達の目指すところなのです。