マタイ7:1-5

“人の目にある塵ではなく自分の目にある梁に気づけ”  内田耕治師

 

私達は使徒信条の“聖徒の交わりを信ず”を告白します。それは互いに戒め合いながら共に主にあって整えられることを目指す交わりです。イエス様の教えはそのためにあります。

「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです」とありますが、そうは言っても時にはさばくことが必要なことがあります。学校で先生は生徒の間違いを正さなくてはならないし、スポーツの審判はルール違反をさばかなければならないし、親は子供の悪い行いをさばかなければ正しく育てることができません。

「あなたは、兄弟の目にあるチリは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」何となくわかる気がするみことばですが、「梁」が何であるか分かりません。反抗期でグレかかった青少年は、親や先生が注意すると、“上から目線だ”と反発します。それが親や先生の梁のように見えます。また私達が身近な人の良くない点に気がついてそれを注意したときに“あんただってこんなことをする”と反発されることがありますが、“あんただって”が注意した私達の梁のように見えます。けれども、それらはイエス様が言う梁とは違います。

根本的な違いがあります。それらは注意した後、反発されて気づくものです。「自分がさばく、そのさばきでさばかれる」ことです。けれども、イエス様が言う梁は「偽善者よ。まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、――兄弟の目からチリを取り除くことができます」梁とは兄弟のチリを指摘する前に自分で気づいて取り除くものです。順序が違うのです。

イエス様が言うチリとは、私達の周りにある埃やゴミのように人目につく人間の良くない考え方や偏見、良くない習慣や悪癖などです。だから「あなたの目からチリを取り除かせてください」とは、私達の目につき問題となる兄弟のあり方を指摘し、兄弟がその指摘を受け入れてそのあり方を変えることです。一方、梁とは家の天井にある屋根を支える材木だから、梁はチリよりも遥かに大きいにもかかわらず、あまり人目につかないし、私達もあまり意識しないものです。また梁はチリと違って家にしっかり取り付けられているものだから取り除くことが出来ないものです。だからイエス様が言う梁とは普通あまり人目につかないし、私達自身もあまり気づいていないけれども、私達が神のみわざを行うときにそれを妨げる何かです。

梁とはイエス様に「見なさい。自分の目には梁があるではありませんか」と言われて初めて気づくものです。だから梁とは私達のうちに住む罪です。罪とは何か悪いことをしたという意味ではなくて、人間である以上、だれもが持っている罪の性質であり、人間は自分の力ではその罪をどうすることもできず、やがて神のさばきを受けてしまうものです。けれども、その罪のためにイエス様は十字架にかけられて贖いを成し遂げられたので私達はただイエス様を信じることによって恵みのゆえに罪からの救いを得ることができました。さらにイエス様は私達がこの罪をよく知り、思い知らされるならば、頑なな兄弟の心を開かせる可能性があると教えています。

“梁を取り除く”とは私達の罪がなくなることではなく、私達が自分の罪を思い知らされて何とかして自分が変えられることです。どうして兄弟のチリを取り除くことができないのか? それはその兄弟だけでなく、私達にも問題があるからです。私達の問題とは私達が親切に兄弟の目のチリを指摘しても、兄弟の心を開かせない何かがあることです。“上から目線だ”という言葉は私達の抱える問題をよく表しています。問題とは兄弟に対して高い所に立って兄弟をさばいていることです。だから心を開かないのです。けれども、私達が本当にへりくだって兄弟と同じ所に立つならば、兄弟は心を開いて、私達の言うことを聞き入れ、自分でチリを自覚して取り除くようになる可能性が出てきます。そのためにイエス様は私達がまず自分の罪を思い知らされ、へりくだることを勧めているのです。けれども、救われて良かった!でとどまり、深くへりくだる所まで行かないこともあり得ます。そうだと私達のうちにある梁はそのままです。だからパウロは自分の罪を思い知らされてへりくだったことを、1テモテ1章に記しています。

「キリストイエスは罪人を救うために世に来られたということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それはキリストイエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。」1テモテ1:15-16

パウロであろうと、私達であろうと、イエス様の贖いのみわざによって救われたことは同じですが、同じように救われていても神の前にへりくだっているかどうかは違いがあります。このパウロのことばを読むと、その違いを感じさせられます。けれども、このパウロのことばはパウロだけでなく、私達のことばともなり得ます。もし私達が自分の罪を思い知らされ、パウロと同じように自分が罪人のかしらであり、神のあわれみを受け、寛容を示してもらったことがわかれば、私達も神の前にへりくだることができます。へりくだることによって私達の梁は取り除かれ、兄弟と同じ所に立ち、兄弟は心を開いて、私達が兄弟の目からチリを取り除くことが可能になります。そうすることによって、主にあって互いに戒め合い、整えられていく聖徒の交わりを築き上げることができるのです。私達は小さな者ですが、そのために召されています。その召しを心に留めながら、聖徒の交わりである教会を共に築き上げることができれば幸いです。