士師記6:25-35

“民を救う息子の勇気と父の機知”  内田耕治師

 

イスラエル人は初心を忘れ、本来あるべき信仰から離れ、次第に異民族の影響を受けて偶像を受け入れ、彼らの信仰はあれもこれも神々として祭る日本人に近い信仰になって行きました。彼らは天地万物を造られた創造主だけが真の神であることを知っていました。しかし、ギデオンの頃、イスラエル人は偶像の神を所持し、大切にしていました。偶像の神をバアルと言い、そのために祭壇があり、バアルの祭壇にはアシェラ像がありました。そして、イスラエル人がそのように偶像を所持して真の神から離れていたことが彼らの弱体化を招き、そのためにミディヤン人の侵略を許していました。前回の復習になりますが、強大なミディヤン人は思いのままに略奪行為を行い、国を荒らしていました。でも、イスラエル人はミディヤン人を恐れてビクビクし苦しめられるだけでした。

イスラエル人は偶像礼拝に陥って真の神から離れたことが災いの原因だと1人の預言者に言われましたが、彼らは悔い改めず、相変わらず偶像礼拝を続けて真の神に立ち返りませんでした。そんなときにイスラエル人を救い出すギデオンが現れました。ギデオンもほかのイスラエル人と同じようにミディヤン人を恐れてビクビクしていましたが、主はそんなギデオンを召し出しました。主が彼にまず初めにやらせたことはミディヤン人と戦うことではなくてイスラエル人の偶像礼拝を取り除いて真の神に立ち返らせる宗教改革でした。たった1人のギデオンがですが、案外、身近なところに改革をするカギがありました。それは彼の父ヨアシュでした。父ヨアシュは他の人々と同じように偶像礼拝と妥協してバアルの祭壇やアシェラ像を所持していました。それで主はギデオンにまず父ヨアシュの所持するバアルの祭壇やアシェラ像を破壊し、真の神にいけにえを献げて礼拝することを命じ、ギデオンはそれを夜行いました。その頃のイスラエル人は“ヨアシュの子ギデオンがやった。おまえの息子を引き出して殺せ”と言うほど偶像を大事にしていました。でも、臆病なギデオンが勇気を振り絞ってバアルの祭壇やアシェラ像を破壊し、真の神にいけにえを献げたことから宗教改革は始まりました。ギデオンがしたことに押し出されて父ヨアシュがしたことが宗教改革をぐーんと進めました。そのとき彼は崖っぷちに立たされていました。もしこれまでのように表向きバアルの側に立つなら、バアルを破壊した息子を殺さなければなりません。もし真の神の側に立つなら周囲の人々を敵に回します。バアルの側に立つか真の神の側に立つか厳しい選択を迫られましたが、ヨアシュは主の導きによって真の神の側に立ちました。すると奇跡が起こりました。彼の機知に富む証しによって人々が偶像の神の虚しさに気づいたのです。

真の神は永遠におられるお方ですが、偶像の神はある時から存在するようになったものです。真の神はすべてのものを造った創造主ですが、偶像の神は人によって造られた神です。真の神は人間の世話を一切受ける必要のないお方ですが、偶像の神はもともと人間が作ったものだから人間が世話をしなければ存在できない神です。たとえば、破損したとき人間が修理しなければ廃れてしまいます。ヨアシュはその虚しさを人々に気づかせる機知の富む証しをしました。

「もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が打ち壊されたのだから、自分で争えばよいのだ」

バアルが人の世話がなければ何もできない無力な偶像であることを皮肉ったところですが、この一言によって“なんだ、バアルなんて自分では何もできないものなんだ”というふうに人々は偶像の虚しさに気がつき真の神に立ち返りましたさらに人々は連鎖反応のように次々に真の神に立ち返り、ギデオンに従う人々が起こされました。

どうしてそんなに速やかに宗教改革が進んだのか?それはおそらくミディヤン人の侵略を招いたのは偶像礼拝によって真の神から離れたからだという1人の預言者のみことばがあったからだと考えられます。かつてそのみことばを聞いてもイスラエル人は悔い改めなかったですが、そのみことば自体は彼らの心に残り、少しずつ働いて、ヨアシュが「バアルは、――自分で争えばいい」と言ったとき、彼らは一気に悔い改めに導かれたのです。

ところで、私達もそれぞれ置かれた所で折に適って機知に富むみことばを語ることができます。偶像礼拝と妥協していたヨアシュのような人でも出来たのですから、私達なら尚更できるはずです。主は私達に期待しています。それゆえ、そのために新約聖書は2つのことを教えています。

まず、そのために備えることです。第一ペテロ3章「―――あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」コロサイ4章には「外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、1人ひとりにどのように答えたらよいかがわかります。」

時と場合によっては予想外のことが起こり必ずしも十分に備えることができませんが、そんなとき、主が語るべきことを語らせて下さるという約束があります。マルコ13章「人々があなたがたを捕えて引き渡すとき、何を話そうかと前もって心配するのはやめなさい。ただ、そのときあなたがたに与えられることを話しなさい。話すのはあなたがたではなく聖霊です。」

息子を殺すか人々を敵に回すか崖っぷちに置かれたヨアシュが語ったことは聖霊が語らせたみことばでした。私達にも聖霊がともにおられ、聖霊は私達に語るべきみことばを与えてくださいます。だから御霊によって語るべきみことばを与えて下さる主に信頼して歩んでいきましょう。