士師記6:36-7:8

“自分を救うのは自分ではなく主です”  内田耕治師

 

信仰とは主に信頼することです。主イエスは罪ある私を、その十字架のみわざによって罪から救い、やがて天国に連れて行ってくださると信頼する。それは最も基本的な信仰ですが、信仰は天国へ行く信仰だけではありません。この世でなすべき神のみわざがあるとき、自分には力はないけれども、主が必要な力を与えて下さるから何とかできると信頼する。それも信仰です。

ただし信仰には人によって大きい小さい強い弱いがあります。また大きく強い信仰が良くて小さく弱い信仰はダメだと簡単に言うことはできません。むしろ私達はその人に信仰があることをまず喜ぶべきです。けれども、主は小さく弱い信仰の人をそのまま放っておくことはしません。その信仰が成長して大きく強い信仰となるように主はその人を取り扱います。へブル11:33-34「彼らは信仰によって――弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました」これはおそらくギデオンのことです。ギデオンに対する主のお取り扱いは3つのことがありました。

1つ目はしるしです。強大なミディヤン人と戦いを控えていたギデオンは不安で本当に主が救ってくれるかどうか確信が持てず、主にしるしを求めました。羊の毛にだけ露が降りて土全体が乾くようにしてくださいと祈りました。すると、そうなりました。さらに羊の毛だけが乾いて土全体に露が降りるようにしてくださいと祈ると、そうなりました。イエス様は「主を試みてはならない」と教えましたが、もし弱い信仰の人が主のために立ち上がるためにしるしが必要なら、主を試みることになってもその求めに応じてしるしを与えてくださるのです。ただし、だれでもそうなるのではありません。ギデオンの場合はそれが必要でしたから、主はそうしてくださったのです。

次に2つ目は、頼りにしていた兵士の数をグーンと減らすことでした。初め兵士は32000人いましたが、22000人が帰って行き、10000人が残りました。さらに水の飲み方でテストをして9700人は不合格になり、合格したたった300人でミディアンの大軍と戦うことになりました。

3つ目は、彼らが主のみことばによって兵士が減らされた意味を知らされたことです。何の意味も分からずに兵士の数を減らされたならギデオンやイスラエル人は不安が募るばかりで逃げ出したくなるとか、自暴自棄になるとか、悲壮感で全員討ち死の自滅的な戦いを仕掛けるとかになるでしょう。けれども主は兵士の数を減らした意味をその都度伝えました。それで彼らはミディアンの大軍に立ち向かう信仰的な備えができました。

「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが“自分の手で自分を救った”と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。」

兵士の数に拠り頼んで敵に勝ってしまうと、ギデオンを初めとするイスラエル人は“自分達の力で敵に勝つことができた”と思い、自分達を誇り、主を賛美することにはなりません。だから“主が救って下さった”と言って主を賛美できるようになるために兵士の数を減らしなさいと伝えました。これから始まる戦いは、ギデオン達がどれだけ主に信頼することができるか競う信仰の戦いです。どこまでも主の力と導きに信頼していくことができれば、主は救ってくださり勝利を得ることができます。けれども、彼らが主に信頼することが出来ず、自分達の力に拠り頼むならば、主は救って下さらないから敗北します。

「主はギデオンに言われた。“兵はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをより分けよう。」

この後、水辺で犬が水をなめるように舌で水をなめた者は除外されて、手で水を口に運んで飲んだ者だけがギデオンとともに行くことになりました。その結果、たった300人でミディアンの大軍と戦うことになりました。よく手で水を口に運んだ300人は落ち着いて冷静だったから勝てたなどという議論がありますが、話がずれてしまいます。大事なことは最終的に300人になったことです。300人は絶望的で人間的に考えたら、もう初めから敗北が決まったようなものです。主の救いがなければ、絶対勝つことが出来ません。だから、みことばに従って兵士を大幅に減らすとは主の救いによってのみ勝利できるという信仰を告白することでした。一般的な言い方で言うと、それは“退路を断つ”ことと似ています。ギデオン達は主の救いだけを信頼して兵士の数に拠り頼むという退路を断ち“自分達を救うのは自分達ではなく主である”という信仰を告白したのです。

今の私達も“自分を救うのは自分ではなく主である”という信仰に導かれています。天国については、自分の力ではどうにもならないことを認めて主の救いを信じて告白しています。けれども、この世のことについては全面的に主に拠り頼む信仰がなかなか持てません。主の力を見ないで自分の力や能力や賜物だけを見ているからです。自分に力がないとか能力や賜物がないと思うと、もう無理だと考えて信仰を持てなくなるのです。でも、信仰とは主に拠り頼むことであって自分の力や能力や賜物に拠り頼むことではありません。だから、主に拠り頼んで行けば、主は私達に必要な力や能力や賜物を与えてくれます。ギデオンとイスラエル人はその良い例です。彼らが自分達の兵士の数に拠り頼んでいる限りは、ミディアン人に勝利することはできなかったですが、兵士の数に拠り頼むことを捨てて、主の救いに拠り頼むことで勝利への道が開かれました。

同じように、私達が自分の力や能力や賜物だけに拠り頼んでいる限りは、大きな信仰を持つことはできません。けれども、主の偉大な御力に拠り頼むならば大きな信仰を持つことができます。そして主は私達の信仰が成長して少しでも大きい信仰を持てるように、いろんなことを通して導いてくださいます。だから、私達にとって大事なことは私達の信仰を成長させる主の導きを素直に受け入れていくことです。主の導きを逃げることなく呟くことなく受け入れていくならば、私達の信仰は主にあって成長するのです。