マタイ6:24-34
“明日のことは明日が心配します” 内田耕治師
“そんなことで食っていけるのか?”日々の必要が満たされて生活が成り立つのかという心配がだれにでもありますが、聖書はそんな心配をする必要がなくなる生き方を教えています。それが神に仕える生き方です。では、神に仕える生き方とは何か?
神は初めに私達が何もしなくても私達の罪のために御子を十字架にかけるほどに私達を愛してくださいました。それで私達はそのような神の愛に押し出されて神に仕える生き方が始まります。聖書では神をよく主と呼びますが、私達は神を私達の主であるとして従い、そのみこころを行おうとします。それが神に仕えることです。神に仕えるとは、神を礼拝し、イエス様のお名前で神に祈り、神のみことばである聖書からみこころを聞いていくことです。また神に仕えるとは、神のために自分の時間や能力や賜物をささげて神や人のために何かしようとすることです。それは教会の奉仕や伝道などの様々な働きです。私達はそのような様々な働きをするために神に召されているのです。
次に神に仕えるとき、一番気がかりなことは“食べて行けるのか”つまり“必要が満たされるのか”ということです。たとえば、牧師になって食べて行けるのか“と本人ではなく、未信者の家族が言うことがありますが、だれもがそういうことが気がかりになります。けれども、聖書は神に仕えたら必要が満たされることを2つの有名なたとえによって教えています。人間は食べていくために農業をします。農業には,種まきとか、刈り入れとか、刈り取ったものを倉に納めるなどハードな労働をします。一方、鳥は種まき、刈り入れ、倉に納めるなどのハードな労働を行いません。餌を集める苦労はありますが、人間ほどハードに働かないで生きて行けます。イエス様はそのことを用いて天の父はあまり働かない鳥でもキチンと養っています。だったら、鳥よりも遥かに優れた人間のために神は絶対にその必要を満たして養って下さるはずだと教えています。もう1つは野の花です。野の花は鳥よりもさらに働きません。ただ植えられてじっとしているだけです。しかも野の花は寿命が短いもので、今日はあっても明日は炉に投げ込まれ、アッと言う間になくなってしまう儚い存在です。けれども、神はそんな花を非常に美しく、ソロモンの神殿よりも美しく装います。だったら、野の花よりも遥かに優れた人間の必要を神は絶対に満たして下さるはずだと教えています。
そして神に仕えたら私達の必要が満たされることを教えています。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」神は食べたり飲んだり着たりという私達の基本的な必要を満たしてくださいます。そういうわけで「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります」という将来を心配しない生き方ができるのです。
ところで必要が満たされて明日を心配しない生き方は「苦労はその日その日に十分ある」生活だと教えています。必要が満たされて明日を心配しない生活になると、楽になるのではなく、苦労や労苦がその日その日にたくさんある生き方になります。必要が満たされ心配がなくなると、どうして苦労が増えるのでしょうか?その“苦労”とはだれのためかを考えるならば「苦労はその日その日に十分ある」ことが言わんとすることが分かります。神が自分の必要を満たして下さることを知らないで“食っていけない”と思うならば、どれだけ稼いでも“食っていけない”と言って心配がなくなりません。それは自分のために苦労していることです。そして自分のために苦労することは別の言い方をすると、自分のために地上に宝を蓄えることです。そうして蓄えた宝はそのうちに虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗んでいきます。けれども、神が自分の必要を満たして下さると信じるならば、自分の生活を心配する必要がなくなり、自分ではなく神や人のことに心を砕いて自分に出来ることをするようになります。それも対象は違いますが苦労です。だから「その日その日に十分ある苦労」とは自分ではなく神や人のために働くための苦労です。それは別の言い方をすると自分のために天に宝を蓄えることです。そうして蓄えた宝は虫やさびで傷物になることなく、盗人が壁に穴を開けて盗むことがありません。
自分のことを心配しても苦労はあるし、神や人のことに心を砕いても苦労はあります。何をしてもそれなりに苦労があります。でも、どうせ苦労するなら自分のためではなく、神や人のために苦労しなさい、なぜなら、そうすれば、天に宝を蓄えることになるからですとイエス様は教えているのです。
神が私達の日々の必要を満たして下さることには明確な目的があります。その目的とは、ただ私達を楽にさせるためではありません。私達が神や人のために心を砕いて積極的に仕えるようになるためです。「その日その日に十分あります」とは私達が必要とされる場所がたくさんあるということです。自分の必要だけを考えていたとき、自分が必要とされる場所は狭いところに限られていました。けれども、自分を離れて神や人のためにという視点で周りを眺めてみると、自分が必要とされる場所がたくさんあることが分かります。自分の存在や能力や賜物が用いられます。今まで経験しなかったことでも、やれば出来るようになり、それが必要とされます。そして自分の存在や能力や賜物が必要とされ、用いられることによって私達は主に用いられる喜びを得ることが出来ます。というわけで、この際、自分を離れて神や人のためにという視点で周りを見て自分が必要とされる場所を探して進んで自分に出来ることをして、天に宝を蓄える働きをして下さればと思います。