士師記13:1-25、エペソ1:3-5

“神に選ばれた怪力サムソン”  内田耕治師

 

ペリシテ人がエーゲ海方面からカナンの地に侵入してきた。イスラエル人は真の神から離れ、主の目に悪を行っていたのでペリシテ人に圧迫され苦しめられていた。そんな頃、主の使いがマノアの妻の前に現れた。彼女はアブラハムの妻サラと同様、不妊の女性だったが、主の使いは彼女に「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げ、その後マノアにも現れて同じことを告げた。主の御告げで大事な点はその子が母の胎にいる時からナジル人だということである。ナジル人とは“聖別された者、献げられた者”である。ナジル人であるには、ぶどう酒や強い酒を飲んではならないとか、汚れた物をいっさい食べてはならないとか、頭にカミソリを当ててはならないという規定があった。生まれながらにナジル人であるその子は生まれるとサムソンと名づけられ、大きくなると彼の上に主の霊が注がれて、イスラエルをペリシテ人の手から救い出す働きをするようになった。ところで、私達はこのサムソンという人物から学ぶことはあまりないが、サムソンを生まれる前から選んで遣わした神からは大いに学ぶべきことがある。神は当時のイスラエル人を見捨てなかったが、同様に神はご自身を無視して人間の力や科学技術や知識ばかりを誇る現代の人々も見捨てていない。主はイスラエルを憐れんでナジル人サムソンを救う者として遣わしたが、同様に今も主は現代の人々を憐れんで救うために主が選んだ者達を遣わしている。

それはだれか? 私達のことだ。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるためです」このみことばは、弟子達だけでなく今の私達にも与えられている。私達は弟子達と同じように罪の支配下にある現代の人々にキリストの福音を伝えて罪から解放し、解放された人々が集まって聖徒の交わりを作るという実を結ぶために遣わされ、宣教の働きをしている。サムソンと私達を比べると、目標とすることはまったく違うが、主に選ばれて遣わされたことは同じだ。

さらに興味深い共通点がある。それは、サムソンも私達も生まれるまえに神に選ばれたことだ。サムソンは生まれる前から神に献げられたナジル人だったが、私達はエペソ1章によると世界の基が据えられる前からキリストにあって選ばれた者である。神に選ばれた者は、その選びにふさわしい生涯を歩む。サムソンの人生は、暴れん坊で滅茶苦茶な生涯だが、見方を変えると、彼は滅茶苦茶をやりながらペリシテ人からイスラエルを救うという神のご計画を成し遂げた。彼はその選びにふさわしい歩みをしたのである。同じように、私達もサムソンほど酷くはないにしてもいろんな弱さを抱え、時には無茶苦茶なこともしてしまう。けれども、私達も神に選ばれた者だから、弱さがあっても無茶苦茶なことがあっても主の選びにふさわしい生涯を歩み、主の選びにふさわしい実を結ぶようになる。私は別に無茶苦茶な歩みを勧めるわけではないが、たとえいろんな弱さや無茶苦茶なことがあるとしても、生まれる前から私達は神に選ばれた者達だから、弱さも無茶苦茶なところも主の御手の中にあり、主の選びにふさわしい生涯を歩み、実を結ぶようになる。何事も主のご計画通りになる。そんな神のご計画が成し遂げられることを、期待し、喜んで進むことが、私達の信仰生活なのです。