士師記11:1-40

“なぜ、娘を死なせるの?”  内田耕治師

ギルアデ人エフタは遊女の子だという生い立ちのゆえに追い出されてトブの地に住んだが、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けたとき、ギルアデの長老達はエフタの指導者の賜物を見込んで首領になってアンモン人と戦ってほしいと要請した。エフタは初め渋ったが長老達の強い願いに折れて要請を引き受けた。次にエフタはアンモン人の王と交渉した。王は300年も前の歴史を語って領土の返還を要求したが、エフタも歴史を言葉巧みに語ってその要求の根拠を否定したので戦いが始まった。エフタが率いるイスラエル人は主によってアンモン人に勝利することができた。

ところでエフタは優れた人物でありながら、神の目には問題を抱えた人だった。当時のイスラエル人は自分の目には良いと思えても神のみこころから外れたことをしていた。エフタもそうだった。彼の問題は彼の軽はずみな誓願に現れた。本来、信仰とは神を信頼して願い求めることだが、エフタは「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えて下さるなら」と取引の祈りをした。しかも、取引したものは人の命だ。約束の地の原住民には子供をいけにえとして偶像の神々に献げる悪しき習わしがあった。イスラエル人もカナンの地に定住すると、次第にその習わしの影響を受けてしまい、それをすることが主を喜ばせることだと思う人々が増え、エフタもそう思い、人の命を軽く考えた。彼は家の僕が真っ先に出て来ると思い、その者を全焼のいけにえにするつもりだった。まさか自分の娘が出て来るなど思わなかった。彼は人の命の価値に差をつけていた。

エフタが抱える問題は娘を死なせるという悲劇を引き起こした。彼女には何の問題もないのに父が抱える問題のために死ぬはめになったのである。しかし驚くことに彼女は「お父様、あなたは主に対して口を開かれたのです。口に出されたとおりのことを私にしてください」と言った。
ところで、私はこのエフタの娘を見ると、十字架で死んだイエス様を見るような気がしてならない。エフタの娘とイエス様には類似性がある。彼女は1人子、イエス様も神のひとり子。彼女に罪はなかったが、イエス様も罪のないお方だ。彼女は父の問題のために殺され、イエス様はエフタが抱えていた問題と同じような人類の問題つまり罪のために十字架にかけられた。彼女が何もためらわずに自分の運命を受け入れたように、イエス様も神のご計画に従順に従い十字架を受け入れた。

けれども、違う点がある。昔のイスラエル人はエフタの娘のために嘆きの歌を歌って彼女の死を嘆き悲しんだが、私達はイエス様の死に感謝し喜んで主を賛美する。どうしてか?彼女の死は、私達に何ももたらさないが、イエス様の死は私達に罪の赦しによる救いをもたらすからだ。私達は生まれながらに持つ罪のゆえに、やがて死後にさばきを受けて滅びる定めにある。私達はこの世でどれだけ良い行いを積み上げても罪の赦しを受けることはできない。私達は自分の行いによって神のさばきから自分を救うことはできない。けれども、十字架で流されたイエス様の血によって私達は罪が赦されて神との交わりを回復し、救いを受けることができる。私達はそのようなイエス様をエフタの娘を通して見ることができる。それは悲劇の中に見る神の恵みではないだろうか。