へブル12:1-3
「自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか」 内田耕治師
へブル12:1は信仰生活を陸上競技のように描いている。陸上競技は大きなスタジアムで行われるが、信仰生活という陸上競技にも大きなスタジアムがある。それは私達が生活し、仕事し、教会生活をするこの世である。私達は競走をする選手である。「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」スタジアムには選手達を見守り応援する見物人がいるが、信仰生活にもイエス様だけでなく、選手である私達を見守り応援する見物人がたくさんいる。それは11章のアベル、エノク、ノア、アブラハムーーーから始まる大昔いた信仰の先輩達である。
「一切の重荷を捨てる」陸上競技の選手達は軽装で走り重荷となるものを持たないようにする。同じように私達の信仰生活もできるだけ重荷となるようなものを捨てて走るほうが良い。重荷とは何か?信仰とはまだ見ていないことでも主を信じて前に進むことだが、思い煩いが邪魔をすると、前に進めず信仰を弱らせる。だから思い煩いは捨てるべき重荷だ。周囲を気にして同調圧力に巻き込まれ自分をクリスチャンだと言えないとか偶像礼拝をなかなか断れないとかは結局、神ではなく人を恐れるからだが、人を恐れることも捨てるべき重荷である。
「罪も捨てる」罪こそ捨てるべき重荷だが、この罪とは原罪ではなく個々の具体的な問題である。たとえば、高ぶった思いがあると、教えをよく聞き学ぶことが難しくなり成長を妨げるし、人を見下げて良い交わりを妨げるから、高ぶった思いは捨てるべき罪である。また、あの人やこの人が赦せないという思いも良い交わりを難しくするから赦せない思いは捨てるべき罪である。
「まとわりつく」性質が罪にはある。たとえば、前に高ぶった思いで失敗して酷い目に遭ったのに、ほとぼりが冷めて物事が上手く行くようになると、また高ぶる思いが出て来るとか、赦せないという思いを悔い改めて赦すことを決意したにもかかわらず、いつまで経ってもあの人やこの人に対する呟きや文句が出て来たりする。また若い時には真面目にその都度その都度、罪を捨てていたのに、年を取ってからいい加減になり、信仰が後退するとか、若い時はチャランポランタンだったのに、年を取ってから罪を真面目に捨てるようになって信仰が前進することがある。先の者が後になり後の者が先になるのである。だから信仰生活は息の長い長期戦だ。
そのような長期戦に必要なものは忍耐だ。忍耐とは自分が成長することを静かに待ち望む姿勢だ。
「それだけでなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです」ローマ5:3-4
苦難とは信仰のゆえに迫害されることだけでなく、問題を起こして自分の至らない所が現われることでもある。そんなとき情けなく恥ずかしい思いになるが、それも自分が成長し、練られた品性や希望を持てるようになるためだと思い、待ち望んでいくことが聖書が教える忍耐である。そのような忍耐をもって自分の前に置かれた競走を走り続けていきましょう。