マタイ9:27-31
“あなたは信じるか。はい、主よ” 内田耕治師
2人の盲人の癒し、口のきけない人の癒し、パリサイ人の批判のうち特に盲人の癒しを取り上げる。当時、目が見えない人は物乞いしかすることがなく何か罪があるからそうなっていると思われ肩身の狭いをしていた。だから彼らはイエス様の噂を聞いたとき大きな期待を寄せた。「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」ユダヤ人にはメシヤはダビデの子孫として来るという信仰があったが、彼らはイエス様をメシヤと認めていた。あわれみを求めることは信仰の大切な要素である。また彼らは進んで行くイエス様に何としてでもすがり着こうとした。彼らは十分に信仰的である。
そんな彼らを、イエス様はその場で癒さず家に連れて行き、「わたしにそれができると信じるのか」と問いかけた。彼らはイエス様をメシヤだと信じていたのに、イエス様は彼らをまだ信じていない人のように扱った。どうしてか?信仰は心で信じれば、それでいいのではなく口でその信仰を言い表すものだからである。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」イエス様は彼らに自分の信仰を口で告白する機会を与えたのである。それで彼らは「はい、主よ」とその信仰を告白することができた。するとイエス様は彼らの信仰に基づいて「あなたがたの信仰のとおりになれ」と彼らの目を開かれた。
ところで、彼らがその信仰を告白して目が見えるようになったことは、私たちの信仰の歩みを表している。私たちもかつて「あわれんでください」と心の中で囁(ささや)くだけの時があったのではないか。そう囁けること自体は信仰的で良いことだが、心で囁くだけでは囁きで終わってしまう。彼らのように一歩、外に踏み出して主にあわれみを求めることで一人前の信仰となる。彼らは直接イエス様にあわれみを求めたが、今はイエス様はいない。けれども、今はキリストの体がある。それは教会である。だから今、主にあわれみを求めるとは教会の戸をたたくことだ。一般社会では“イエス様を信じます”と言っても無視される。けれども教会でそう言えば必ず喜んでくれ励ましてくれる。教会は信仰の告白をしたり聞いたりして互いに成長する所だからである。
それとともに一般社会の私たちの信仰に関心を持ってくれない人々の間でも自然に信仰を告白するのは大事なことだ。信仰を心の中にしまっておくのは不自然だし、人を恐れて信仰を隠すなら、せっかくの証の機会を失い、大きな損失になるからだ。聖書には御霊が語る機会と語るべきことばを与えると約束している。「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよい。話すことはそのとき与えられるからです。――」だから、そんなに心配する必要はない。
私の小さな証しだが、私は神学校のときアルバイトをしていた。午前は授業だから午後だけで雇ってもらった。仕事は軽トラックで建築資材を現場に運ぶことだった。ある時、1人の社員が“内田さんの神様はイエス様なの?”と尋ねてきたが、そのとき私は自信をもって“そうですよ”と答えることができた。小さなことだが「はい、主よ」に匹敵する告白だと私は思っている。主は証しする機会と語ることばを与えてくださるのである。だれにでも、一般社会の中でたまにそういう機会が与えられ自然に語ることばが与えられる。そういう機会を活かしていきましょう。