マタイ10:1-8
“主はあなたを弟子として遣わされる” 内田耕治師
10章の弟子達の選出と派遣は、9章の働き手が与えられるための祈りから内容的に続いている。その祈りの結果、十二弟子は与えられた。十二弟子のリストで弟子になる前にしていたことはマタイの取税人、シモンの熱心党だけが書いてある。両者は当時敵対するものだったが、弟子になって解放され、同じ主にある兄弟姉妹として新しい使命のために働いた。私達も家柄、貧富、仕事、地位の違いがあるが、それらを横に置いて同じ主にある兄弟姉妹として新しい使命のために働こう。
裏切ったイスラリオテのユダは弟子の中に弟子ではない人がいる宣教の現実を表す。13章の毒麦のたとえで主は毒麦を引き抜かないで収穫の時までそのままにするように教えた通りにユダは最後まで弟子の1人とされていた。でも、主は最後まで彼が悔い改めるように働きかけた。そのように弟子のようで弟子ではない人がいても弟子となるように最後まで祈り導くことが教会の役割である。
十二弟子達は主と同じように福音を宣べ伝え、汚れた霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを癒す権威を与えられて遣わされた。私達も主を信じて救われたから、福音を証しし、みことばを伝える権威が与えられてそれぞれのところに遣わされている。また権威を与えられた十二弟子達は遣わされるところが決まっていた。「異邦人の道ではなく、またサマリヤ人の町ではなく、むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」
28章の大宣教命令は「あらゆる国の人々を弟子とすること」すなわち世界宣教であるが、この時点では主はイスラエル人にこだわる。イスラエル人に生まれ育ったならば、イスラエル人にまず重荷を持つことが主のみこころだからである。同じように私達も世界宣教のために祈りながら、まず日本人に重荷を持つようにするのが主のみこころである。それは私達が同じ日本人にみことばを伝えるとき言葉や文化や習慣によるコミュニケーションの壁を感じないことを考えれば明らかだ。
主はどのように福音を宣べ伝えるかも教えている。「あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい」 私達は自分の救いのために何もしていないのに、神が私達の罪のためにイエスキリストを十字架にかけて下さったから、ただ主を信じるだけで救われた。ただで受けたのは福音である。だから、ただで福音を人々に与えるのである。それはだれに対しても惜しみなく伝えることだ。救われたら大きく貢献する金持ちや地位の高い人を大事に扱い、救われてもあまり貢献しない貧乏人、地位の低い人、ホームレス、難民をぞんざいに扱うとしたら、私達の奉仕に損得勘定が紛れ込んでいる。それはただで与えることに反する。
私達はただで福音を与えようとするのに、なかなか受け取らない人達がいる。どうしてか?1つの理由として“ただ”が上手く伝わっていないからだ。私達は神の恵みを語っても“行いがなければならない”と律法的な考えの人が案外多いからだ。そんな場合どうするか? 具体的にはいろいろと考える必要があるが、基本的には私達が神の恵みによってただで福音を受けたことを常に思い、ただで与え続けるほかはない。神の恵みである福音を惜しみなく語り続けよう。